押忍!!“楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ”、応援団員わっそんです^^
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父親の闘病日記(闘病記録)第十七話・最終話になります。
闘病日記もいよいよ最終話。
いろいろなことを考え、試行錯誤を重ねながら日記を書いていたら、小説のようになってしまったというのが率直な感想です。
最後まで書ききれたこと、それが自分にとっては大きな前進であり、この経験が今後の人生の糧となることを望んでやみません。
そうそう、「おわりに」もあるから、そちらの記事も読んでくださいませ(*^-^*)
手も足も出ず
つい1か月前までは、痛みや便秘、そして吐き気といった症状に悩まされながらも、それらを苦にすることもなく、父親らしく日々を過ごしていた。
僕と並んで同じスピードで歩き、張りのある声でしゃべり、階段の上り下りもスムーズで、当然介助などは全く必要ない。
しかし、忘れもしない、2020年5月中旬の頭部放射線治療の期間から、全身状態(パフォーマンス・ステータス)が急激に悪化していき、父親の身体は見る見るうちに衰えていってしまった。
6月に入り介護が不可欠な状態となってもそのスピードは変わらず、どんなに願ってもそこに現状維持という概念さえも見当たらない。
前回の記事でも記載しているのですが、6月の半ばぐらいまでは、肺がん末期の患者とは思えない元気な時間帯があり、訪問看護師やケアマネージャー、そしてその他の来客があった際にも、比較的しっかりと対応していたことが多かったのは事実。
おそらく、“来客があるなら頑張らなくちゃ、みっともない姿は見せられない”というような気力が湧いていたのだろう。
しかし、その反動からか、来客が帰宅後は気力も体力も使い果たしたかのように、ぐったりと横になって眠りにつく。
そして、調子の良さそうな日が何日か続いても、途端に調子がガクンと落ちる日がやってくる、その繰り返し・・・。
ただ、この状態になると調子の良し悪しはもう仕方がないことで、極論、調子が悪いときはゆっくりと休んでもらっていればいい。
問題なのは、やはり肺がんの症状が全身のいたるところに現れてきており、その症状が僅かながら、でも確実に悪化しているような状況だったことで・・・。
具体的に言うと、
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などが挙げられます。
父親の目の前にいる敵は強敵で、一度暴れだしたら手がつけられない。
休むことも知らないようで・・・。
そういえば、父親が肺がんになってから、何一つ順調に進んだことはなかったように思う・・・少なくとも、僕自身が望んだ結果になったことは一度としてない。
少しぐらい抗って、ニュースの記事になるようなことでも起きないものか、嘘か実か「末期がんから奇跡の生還」、そのような情報もごまんとあるようだし・・・。
悪い方向に進むばかりではなく、想定外に良い方向に進むことはないものだろうか、まだ父親には見せたい光景がいくつも残っている。
そんなことばかり考えていたように思う。
最後の病院
前回の診察から1週間後の2020年6月12日、転院先の病院での2回目の受診に向かう。
この日の父親は体調が良かったようで、初診時と比較すると明らかにスムーズで、大きな問題もなく病院に到着することができました。
介護が必要な状態となり、肺がんの症状も多く現れ、調子の波も激しくなってくると、“病院に行けるのかどうか自体”心配になってきますし、無理して連れ出すのも本望ではないので、病院の診察が近づいてくるとものすごく憂鬱で・・・。
受け付け終了後は、「胸部レントゲン検査」→「採血と尿検査」→「呼吸器内科で診察」というお決まりの流れ。
“これ何度目だろうな”“またこの流れやるのかよ”と父親・・・全くごもっともな意見なのであります( ゚Д゚)
前回の診察でもそうでしたが、尿検査については、“無理しない程度で、難しそうなら省いてしまって問題なし”とのこと。
担当医の診察では、血液検査の結果を見ても大きな変化はなく、“水分摂取量が少ないようなのでもう少しとれるといいですね”と言われたぐらい。
ただ、いつ急激な体調の変化等があってもおかしくない状況なので、引き続き細かな体調面の管理については、訪問看護師と相談してほしいということでした。
病院終了後は、“買い物にも行けそうだよ”ということで、もちろん、車いすを使用してですが、数か所の店に寄ってから帰宅。
こういうことがあると、“来客があったり、外出した方がいいのだろうか”と思うこともありましたが、やはり体調の悪い日はそういうレベルではないし、無理した後の反動も怖い。
ただ、回数は極端に減っても、まだこうして一緒に出かけることができるということに、純粋に喜びを感じた。
次回の診察は2週間後、それでも、この診察が父親と一緒に行く最後の診察になるとは・・・夢想だにしなかった。
最後に、今回の診察で担当医から処方されたお薬は以下になります。
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「ロキソプロフェン錠」は、肺がんになる以前にも他の病院で処方されたことがあり、何の副作用もなく安心して飲めるのですが、それ以外の痛み止めは全く合わず・・・もう痛みがいくら強くても飲みたがらず。
それでも、念のためにということで「オプソ内服液」と「MSコンチン錠」は、変わらず処方される。
また、「ツムラ六君子湯エキス顆粒」は飲みづらさを感じたようでなくなっています。
◆お薬の管理について
6月までは、処方されたお薬の管理はすべて父親が行っていました。
しかし、6月以降は自身で管理することが難しくなり、誤薬することもありましたので、僕が管理するように。
それまで僕自身は、恥ずかしながら、「面白い名前のお薬があること」「父親と全く相性が合わないお薬があること」程度にしか興味がなくって><
お薬を管理し、この日記を書くようになってから、“多種多様なお薬を飲んでいたこと”“処方されていたお薬がこれほど変化していたこと”“他の病気のお薬と合わせるとものすごい量のお薬を飲んでいたこと”などに、初めて気付かされました。
せん妄と別人
6月の半ば以降になると、父親の体調に大きな変化が現れ始める。
父親がゴールデンタイムと名付けていた、毎日必ず訪れていた調子の良い時間帯が徐々に減っていき、僕自身が心待ちにしていたその時間帯が消えてしまう日も・・・。
そればかりではなく、大きな希望となっていた旺盛な食欲も次第に落ちていき、口に入れられる食べ物も「お粥」と「うめぼし」のみに。
お粥のときは、大サイズの鍋満杯に入っている量を一日で食べてしまっていたのですが、「鍋半分」→「鍋三分の一」→「茶碗一杯」→「スプーンで数杯」というように、一日で食べられる量が確実に減っていく。
父親は、“よくそんな食えるな!”というぐらい、お粥が大好きなのであります!!
父親から、“食事だけはなんとか”という気迫を感じるものの、どうしても入っていかないようで・・・。
座っていられる時間にも制限があり、“ダメだ食えない、横になる”と。
また、調子の良い時間帯が減ってしまったことで、お風呂に入れない日も増えていく。
そして、ADL低下予防のために、夜間帯以外は介助をしてベッド横に設置してあるポータブルトイレで排泄をしてもらっていたのですが、それも難しくなっていき、一日中オムツをするようになった。
しかし、これらだけで収まることはなく・・・さらに追い打ちをかけたことが、頻繁に現れるせん妄の症状。
肺がんによる脳転移が原因であることは間違いなく、症状としては、書籍等に書いてある通りで、
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などですが、症状を挙げればきりがなく、父親独自の症状もありました。
せん妄の特徴は、とにかく症状の変化が激しく、症状が現れると全くの別人になることです。
認知症と非常に似ている印象を受けましたが、症状は一定ではなく、症状の入れ替わり立ち替わりが凄まじい。
嘘のように普通のときもあれば、誰かがリモコンで操作しているかのような、日によっても、時間によっても、症状がコロコロと変化していくようなときもある。
父親が終末期を迎えていく中で、“少しでも長く一緒の時間を共有し、少しでも多くコミュニケーションを取っていきたい”と思っていたのですが、会話自体が成立しないことも多くなり、それがなによりもつらくもどかしかった。
僕はドキュメンタリー番組が大好きでよく観ているのですが、最期の最期までしっかり意思疎通ができている方も多かったので、そのような状態で最期を迎えてもらうことが理想だったのですが、それも叶えてもらえそうにない・・・。
もう一つ、この時期にすごく印象的な出来事がありまして。
父親がどうしても知人に話したい要件があるそうで、横になったまま携帯で電話をしていたのですが、少し意識がしっかりしていないような・・・例えると、寝ているところを無理やり起こされて電話に出て対応しているような感じでしょうか。
声も父親っぽくないし、呂律も回っていないしで、案の定、“本当に○○さんかい??後でまたかけ直すわ”というわけでして・・・まあそうだろうなと・・・。
変身したかのように別人になる父親と接することはハードルがものすごく高く、衰えていく姿を見ていくのと同様に、そこには言い知れぬつらさと苦しさしか残らなかった。
実際に介護の現場で認知症の方々と接した経験があるけど、改めて認知症の家族を抱え介護をしている方々の苦労が身に染みてわかったのであります!!
詰んでしまうのだろうか
前項の続きになりますが、この時期になると、定期的に声かけをして水分を摂取してもらい、食べられるときにはお粥をスプーンで数杯食べてもらう、それを機械的に行っていくことぐらいしかできませんでした。
せん妄症状が現れてしまうと何もかもうまくいかなくなってしまうため、父親の状況を確認しながら、辛抱強く定期的に声かけをする。
自分で水分補給をしているときもあり、生命線となる水分はまだまだ十分。
しかし、父親の状態が悪くなっていることは明らかで、訪問看護師から“訪問看護の日数を増やしましょう”と提案され、週1回から週2回に変更となる。
訪問看護師も“厳しい状況である”ということは認めながらも、仕事柄、あるいは本音と建前もあるとは思いますが、“声かけにも反応していますし、水分もとれている、そして多少でも起き上がって座ることもできている、プラスの要素もまだまだ沢山ありますよ”とエールを送ってくれた。
また、引き続き、在宅医療(訪問診療)への移行手続きも進めてくれているということで、“大丈夫、十分間に合う“と信じる。
父親を診てくれていた看護師さんの一人はベテランの管理者の方で、時間外になっても父親と長々と話をしてくれ、僕自身も多くのアドバイスをもらい、いろいろな相談にも乗ってもらいました。
看護師さん曰く、“当初の見立てよりも悪化のスピードが速いように思われる”ということでして・・・。
そういえば、こんなような話は大学病院の医師からも聞いたよなぁ~・・・絶対に友達になりたくないタイプの奴(がん)なのでありますm(__)m
僕自身、これまで幾度となく王手をかけられた気分になってきたが、がっちりガードを固めてきたというよりは、王(父親)の力を借りながら、逃げ道を見つけては、命からがら逃がれてきたという印象。
ただもう、王の力も弱まり、逃げ道も見つかりそうもない、ましてや、自分一人で逃げ道を探せるほどの器量もない。
僕は、おそらく桂馬のような変な動きをするタイプで、父親に安心感を与えられるようなサポートができていたのかは甚だ疑問だ。
飛車や角に成りたかったなと・・・。
この闘病日記ではこのようなことばかり書いているのですが、大切な人を「支える」とか「介護する」とか「看取る」とか、そのような状況に置かれると、支える側も患者の病気の症状のように、“感情と一言では表すことができない何らかの感覚”が激しく揺れ動き、自分自身を試されている気分にもなる。
すべてのことに敏感になり、考えなくていいことまで考えてしまう。
その究極がこの時期だったように思う。
◆頭部放射線治療の効果
脳転移(転移性脳腫瘍)に対して放射線治療は相性が良く、治療成績も良いと言われていますが、その通りなのかなと。
放射線治療から2週間前後が経過したあたりから、父親が“頭の痛みはほとんどなくなったよ!!”と言っていましたね。
肺がんになって、さまざまな治療を行ってきましたが、一定以上の効果を感じたのは頭部放射線治療が初めて。
抗がん剤治療(薬物療法)でも“効果が認められている”というようなことがありましたが(カルボプラチン+アリムタ)、しっかりとした効果が実感できたかというと微妙><
それにしても、この状況下で効果が現れるというのは、何とも皮肉なものだなと・・・。
一方で、副作用も強く現れています。
こちらもよく言われている通り、「頭皮のかゆみ」「髪の毛が抜ける」といった副作用。
やはり、髪の毛は驚くほどに抜けますね・・・父親は年齢も年齢なので一部にしか髪の毛はないのですが、ボロボロと抜けていきました。
最後に、物が重複して見える症状については、父親が存命中には何の変化もなく、効果がなかったと言えますが、もう少し長く生きられたのなら、何らかの変化があったのかも知れません。
いい湯だな
父親はお風呂が大好きで、“体のすみずみまで洗い、湯船にじっくり浸からないと一日が終わった気がしない”というような人間。
入院中は、“シャワーだけじゃ物足りない、風呂に入りたいよな”と、口癖のように言っていた。
そして、退院するたびに、自分からお風呂に入った感想を言ってくるぐらいなので、お風呂への愛情は相当なもの。
“温泉や銭湯でも行けば”と言うと、それはちょっと違うようで、僕にはよくわからないのであります・・・まあ、一人でのんびり休むという感覚なのかなぁ~(*’▽’)
当然のことですが、体調が悪くなってくるとお風呂に入れない日も増えてきますし、介護が必要な状態になるとお風呂に入ること自体が難しくなる。
そもそも、入浴は体力を消耗するし、高齢になってくるとお風呂は危険な場とも言え、さらには身体的な状況が悪ければリスクもある。
ただ、終末期になってくると、そのようなことは差し置いて、父親の希望を優先してあげたい。
だから、父親が“入浴したい!!”と言ったときには、最低限のバイタルチェックだけを済ませ、“一緒に入ればなお安心”ということで、一緒にお風呂に入っていましたよ^^
父親が元気だったら、お互いお金をもらっても一緒には入らないだろうなぁ~( ˘ω˘)スヤァ
もちろん、「移動」「入浴」「洗身」「衣服の着脱」すべてに介助が必要でしたが、一緒に入っているので、普通に介助するよりは楽だったのかなと。
また、父親がお風呂に入りたいと希望するときは、体調の良い証でもあり、僕の中では、父親の体調の良し悪しをはかる一つのバロメーターにもなった。
まさに裸の付き合いで、僕もお風呂に入れるから一石二鳥( ゚Д゚)
汚い話になりますが、父親も“ネタになるならドンドン書け”と言っているような気がするので、父親と入浴中に起きた出来事を一つ書いておきますね。
父親と二人で湯船に浸かっていたら、なんか変な感じが・・・。
父親のお尻を見てみると、なにやら怪しいものが出ているではないですか??
便意や便が出ている感覚がわからなくなってきていたので、こういう状況になることも想定はしていましたが、水様便ではなく、なおかつ大量に出ることは想定外で、まさに“こういうときに限って”という感じでして・・・。
父親も僕もずいぶん冷静だったなぁ・・・父親から“風呂に入って汚れるのは初めてだよハッハッハwww、糞まみれの風呂に入ったのも初めてだけどな”と言われたけど、それは僕も同じっす( ˘ω˘)スヤァ
おそらくこういうことはあるあるで、父親も“出したいときには全然出ないのに、出なくていいときに限って出るんだよ”と言っていたのでありますm(__)m
実際、お風呂に入っていて、さまざまな場面で似たようなシーンがありました。
貴重な体験だったけど、経験する必要は全くないかと・・・汚い話で失礼いたしました(ΦωΦ)
神秘的な現象
兄には、父親の体調を逐一伝えていましたので、父親の全身状態(パフォーマンス・ステータス)が悪化の一途をたどるようになると、最低でも週1回は必ず父親の様子を見にきてくれていました。
ただ、仕事があり、引っ越しを控え、嫁さんの出産予定日も近づき、なおかつ新型コロナウイルスの蔓延、そこに父親の病状悪化まで加わってしまったので、兄も相当大変だったと思います。
父親もそれらのことは十分に理解していたので、兄に“嫁さんは連れてくるなよ”“嫁さんには自分の病状を伝えるなよ”と口を酸っぱくして言う。
そもそも兄には、“忙しい時期なんだし、帰ってきても疲れるだけだぞ”とか“わざわざ帰省しなくていいよ、寝ている年寄りを見にきても仕方ない”とか、言っていたなぁ~m(__)m
僕自身、父親の病状が悪化していくようになると、“あとどのくらいの期間、こうして三人で話をすることができるのだろうか”、そんなことばかり考えるようになり・・・。
これは「父親が亡くなってしまったら」という以前に、父親が生きていても、“体調不良で話す気も起きなくなるのではないか”“せん妄症状によって会話が成り立たなくなるのではないか”等、すべての不安を含めたもの。
ただ、これらは取り越し苦労だったようで。
兄が帰省するときは必ず父親に伝えていたのですが、“今日の体調じゃ三人で話しをするのは無理だな”と感じたことは多々あった。
特に父親が亡くなる10日間前後は、そんな日ばかり。
僕との会話が続かないようなことも多くなってきたのに、三人で話せるわけがないと・・・。
でも不思議ですよね、そんな状態でも、兄が帰省する日はこまめに時間を確認してきて、予定時刻が近づいてくると、ベッドから起き上がろうと試み、目の前にある父親の指定席に座らせてくれと頼んでくる。
そして、兄がうちを後にするまでの2~3時間は椅子に座りっぱなしで、会話もそれなりにしており、笑顔を見せるときすらあった。
兄と二人で驚いたものです。
それだけに留まらず、兄が帰宅後は元気な余韻が充満していて・・・。
“父ちゃん、休んだ方がいいんじゃない”と言っても、“もう少し座ってるわ”とか“ご飯食ってみるか”とか話してくるんですよ。
「手も足も出ず」の項目でも触れているのですが、父親は来客があると比較的しっかりと対応していたことが多かったのですが、来客の帰宅後は、その反動からか必ずぐったりと横になって眠っていました。
兄と他の方々と決定的に違う点がこの帰宅後。
これが家族の絆というものなのでしょうか・・・“自分で言うな”という感じだよなぁ~( ゚Д゚)
特に、間近で接している僕からすれば、ある程度父親の体調の波は把握しているので、“僕一人のときではまずあり得ない”“今日の体調でそこまでできるなんて考えられない”ことの連続であり、目の前で起きている出来事が信じられない。
それはそれは、神秘的な現象。
父親がこのような調子であったため、兄も“父親が疲れてしまうのではないか”と心配するようになり、最終的には「帰省も控えめに、なおかつ短時間で帰る」ように方針転換。
「人間は脆く儚い生き物」という認識がどこかにありましたが、時に見せるその生命力の強さは伊達じゃない。
僕もそれなりに年を重ね、いろいろな経験を積み、不思議な現象にも遭遇してきましたが、それらの現象は“偶然ではなく必然である”と改めて感じさせられた出来事でした。
最後の一週間
この日々は書きたいことが溢れてくる。
ただ、そのまま書こうとすると途轍もない量になりますので、“最低限に、まとまるように”心掛け記載しています。
基本的に、死期が近づいてきていることを知らせる徴候は、書籍等に記載されている通り。
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などは代表的な症状としてよく目にしました。
そして、これらの症状に加えて、人によって、病気の種類によって、異なる症状が見られるのではないでしょうか。
ここからは、あくまでも父親のケースではありますが、参考にしていただければと思い、時系列で記載しておきます。
そして、この項目からは、父親の最期を迎える日が近づいてくることもあり、厳しい表現があるかも知れませんがご了承願います。
2020年6月21日
一日を通して、食事は一切食べられず。
定期的に声かけをしていたが反応も良く、自分から“飲み物くれる!”と言ってくることも頻繁にあり、ベッドに座って水分を摂取してもらう。
水分は十分すぎるほどにとれていました。
訪問看護師から1日の水分量など確認される項目も多いので、水筒(500ml)を使用して、できる限り水分量を把握する。
飲み物は「十六茶」、父親が晩年に一番好きだったお茶。
排便はありませんでしたが、排尿はものすごい量でして・・・。
「朝」・「昼」・「夜」という概念はどこかに吹っ飛んでおり、午前7時頃に突然、“お風呂に入りたい”と言う。
もう慣れたもので、一緒にお風呂に入る。
理由を聞いてみたところ、“体がかゆいから風呂に入った方がいいべ”と言うことでして・・・まだまだ体力はあるなと。
しかし、これが最後のお風呂となりました。
2020年6月22日
一日を通して、食事は一切食べられず。
昨日と同様に声かけに対する反応も良く、“十六茶飲む??”と聞くと“よし飲もう、起こしてくれる!!”と言い、がぶ飲みするようなときもあり、水分は十分にとれていました。
お薬に関しては、訪問看護師から、“無理に飲ませなくて大丈夫ですよ”と指示されていたので、飲めそうなときは飲み、飲みたがらないときは飲まない感じ。
排便はありませんでしたが、排尿は相変わらずなかなかの量でして・・・。
今日は夜に兄が帰省することになっており、やはり、予定時刻が近づいてくると“起こして椅子に座らせてくれ!!”と。
流石に、楽しく会話などできませんし、この日は笑顔もなく、冗談も言わず、何かを食べるという奇跡も起こらず。
それでも、終始椅子に座り、せん妄症状もなく、意識もしっかりしている。
それ以前になぜ時間を認識できているのだろうか・・・本当に不思議なことだらけ。
2020年6月23日
一日を通して、食事は一切食べられず。
声かけに対する反応は悪く、水分を摂取できるときとできないときの差も激しい。
自分から水分を欲しがるときも多いが、コップで飲めるとき、ストローを使用しないと飲めないとき、そもそも飲み方を忘れストローでブクブクしてしまうときなど、反応もさまざま。
また、ベッドを上げたり、起き上がってもらおうとすると、急に“痛い!痛いよ!!”と大声で叫びだしつらそうな表情をすることもあるので、ペーパータオルを湿らせて水分をとってもらうことも。
排便はありませんでしたが、排尿はたっぷりでして・・・。
また、今日は訪問看護師の訪問の日。
シビアな指摘が沢山あり、
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また、身体面では、
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とのこと。
褥瘡予防のマットレスに切り替える手続きと、「清拭」「口腔ケア」「ワセリンでの処置」「バイタルチェック」等をしてもらう。
重要な決断が迫られていることは十分に理解しているのに、僕自身は完全に混乱してしまっている。
2020年6月24日
一日を通して、食事は一切食べられず。
今日も昨日と同様に、水分摂取量が減ってしまっており、どうやら一時的な変化等ではなく、厳しい現実に直面する。
それでも、本人が水分を欲しがるときは想像以上に多く、こまめにとれてはいるものの、以前のような勢いがなく、数日前のようにゴクゴクと飲めるようなレベルではない。
水分を摂取するまでに時間がかかってしまうため、その間に“飲みたい”より“横になりたい”という気持ちが勝ってしまうようで、“横になっていい”と口癖のように言う。
やはり、病状というのは刻一刻と変化していくものなのだと再認識する。
排便は少量あり、排尿はまだまだ結構な量で・・・。
また、今日は要介護認定が下りたこともあり、ケアマネージャーが自宅を訪問してくれ、今後のことについて話し合うことに。
介護度は「要介護3」という結果。
まずは、来週から週2回の「清拭」をしてもらうために、ヘルパーを派遣してもらうことが決まる。
2020年6月25日
食事が食べられなくなってから、もうどれぐらいが経つのだろうか。
ぱぱっと思い付かないぐらいなので、相当の日数が経っているのだろう。
父親の顔も痩せこけており、見ていて痛々しい。
食事もとれず、水分もほとんどとれなくなってきてしまった。
呼吸が非常に荒くなっており、無呼吸になるときも出てきている。
目を開けて眠っているようなときもあり、苦しくはないようだけど、でも痛いと言っているような感じもあり、反応もさまざまで対応が非常に難しい。
そして、昨日から微熱も続いている。
明日は、病院と訪問看護の日。
父親と一緒に病院に行くことは絶望的で、担当医や訪問看護師と相談して入院の手続きをとるしか道はないのか、そんなことばかりが頭の中を駆け巡っていた。
2020年6月26日、そして2020年6月27日
こちらは後述しています。
一番避けたかった現実
2020年6月26日、この日は午前中に病院での診察、午後には訪問看護師の訪問という日程となっていた。
前々日のこと、入院の一つの目安となっていた発熱があり、病院にも行けそうな状態ではなかったため、ドキドキしながら訪問看護師に連絡を入れる。
幸い、僕自身が想像していたほど重大ではないようで、発熱したときの基本的な対応を指示され、“身体の状態を考えれば熱が出て当然、大きな変化があればすぐに訪問しますね”ということで安堵。
病院の診察についても訪問看護師からアドバイスがあり、“息子さん一人で問題ない”と言われていたので、僕一人で病院へ。
担当医の診察では、父親の現状について聞かれ、今後の対応については、やはり診察してみないとわからないと・・・。
また、在宅医療(訪問診療)に関しては、移行手続きを行ってくれており、最終段階まで進んでいるようでしたが、こちらも病状確認ができない状況では難しいということで、全体的に辛口。
午後に訪問看護師が来てくれることもあり、訪問看護師から病状を聞き、入院等どのような対応をすべきか判断することに決まる。
この日の本当の修羅場は、病院からの帰宅後で、それは僕にとって惨憺たる有様、まるで地獄絵図。
病院での診察、そして薬局での処方箋受け取りを済ませ、急いで自宅に帰宅する。
訪問看護の予約時間が迫っていたこともあり、父親のオムツ交換をしている最中に“ピンポーン”とインターホンが鳴る。
看護師が家に上がり、バイタルチャックを済ませ、父親の状況を確認し、一呼吸置いてから、“救急車を呼びましょう”と・・・。
「早急な対応が必要な状態」「下顎呼吸に入ってきている段階」「病気は待ってはくれない、理想と現実は違う」・・・胸に突き刺さる、矢のような言葉が続く。
息子さんの気持ちは痛いほど理解していますが、“決断をするときです”と・・・。
看護師さんが順を追って説明している途中で涙をにじませていて、凍結された時間の中でも、そこには今までとは違う温かさと人間味が溢れていた。
完全に自分の負け、うなずくことしかできなかった。
俺は何をやっているのだろうか、少なくともこれは一番避けたかった現実で、“落ち着いて穏やかな最期を迎えさせてあげたい”とか言いながら、目の前の父親は、救急隊員によって殺伐とした空気の中で、荷物のように慌ただしく救急車へと運ばれていく。
人生の最期の迎え方に“何が正しくて、何が間違っているのか”そんなことは誰にもわからない。
だからこそ、自身のエゴでも構わない、“こうありたい”と理想を掲げ、旅立つ側も見送る側も“自分自身の気持ちに正直に”“自分自身が後悔することがないように”、その時が来るのを待つのではなかろうか。
言い訳ばかりし、その準備ができなかった自分は失格だ。
救急車が到着し、父親が救急車へと運ばれていくシーンは、まるで時間が止まったかのように、そのすべてのシーンが身体全体に焼き付けられている。
◆入院への準備
訪問看護師から“在宅医療(訪問診療)への移行は間に合いそうもない”と言われた段階で、兄に相談し入院への準備を進める。
ただ、自宅に救急車を呼ぶようなことは避けたかったので、介護タクシーを利用して、兄と一緒に父親を病院まで送迎する予定で、訪問看護師にも大まかな内容を伝えていました。
ただ、残念ながら間に合いませんでした。
◆在宅での看取りに対する大きな壁
在宅で家族(最愛の人)を看取りたいと言っても、患者が亡くなった際に死亡を確認してくれる医師がいなければ、死亡診断書を書いてもらうことができません。
定期的に病院に行き継続して診察をしてもらっていても、病院の医師が自宅に来てくれることはない。
そして、訪問看護師が体調を診に来てくれていても、看護師が死亡診断書の代筆や交付をするためには、多くの条件を満たさなくてはならない。
父親の場合で言うと、肺がんと診断され、病院での診察や訪問看護師による体調確認等が継続して行われてきたことは明白ですが、在宅での死亡を確認してくれる医師がいないという理由だけで、この状態で亡くなってしまった場合には警察が関与することになってしまうということでした。
“住み慣れた我が家で最期を”と希望する方々が増えてきていますが、自宅で亡くなった場合では病院で息を引き取った場合と異なり、さまざまな手続きが必要であり、法律の壁と相まって、なかなか望み通りにいかないのが実状ではないでしょうか。
最期を迎える日
救急車に乗り、父親と僕は、先ほど診察に行ったばかりの病院へと運ばれていく。
救急車に乗ったのは初めて、自分も意識が遠のきそうで、人生思い通りにいかないことばかり、最悪の気分だった。
父親を見てみるとなんだかすごく苦しそうだ、下顎呼吸はあえぐような状態になるので一見すると苦しそうに見えるが、医学的な観点から言うと、苦しくはないらしい。
僕にはさっぱりわからないのですが・・・。
もし、生還して自宅に戻ってくるようなことがあれば、“救急車で病院に運ばれるなんてずいぶん好待遇だな、心地良かっただろ”、そんな冗談を笑いながら言ってくれるのだろう。
ただ、そのような言葉を聞けそうにない現状では、父親に対して“ただただ申し訳ない”という想いしかなく、心の中で“父ちゃんごめん”とひたすら謝り続ける。
救急車の中でも病院に着いてからも、「医療ドラマ」や「緊急救命系のリアルドキュメンタリー番組」で見受けられるような切迫した緊張感のあるシーンの連続。
それでも、病院に着くと訪問看護師さんが待ってくれており、次の予約時間まで、ずっとそばで見守ってくれていてありがたかった。
看護師から入院に関する説明を受け、フワフワした感覚の中でボーッとしながら待機をしていると、担当医から呼ばれ、
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などの説明を受ける。
病状から一度のみ脱水症状緩和のための点滴を行い、それにより一時的に身体がバタバタするので、転落防止のために4点柵をさせてもらいたいと。
そして、少しでも安楽した状態が保たれるように努めると。
最後に、僕自身が一番気になっていた父親との別れの時については、“もう今日逝ってもおかしくありません、ご家族に急いで連絡を・・・”とのこと。
病院から自宅までは歩いて帰ることにした。
外に出るとまだ日差しが降り注いでおり、時間の流れの遅さに驚く。
そういえば、訪問看護師さんに、“昏睡状態でも何かを感じ取ることはあるのでしょうか”というような質問をしたことがあって。
父親の病状を確認してくれていた二人の看護師さんとも、“第六感のようなものはあると思います”という答え。
少なくとも“自宅なのか病院なのか、そういうことなどはわかっているのではないか”と。
病院を出てからは、そんなことをひたすら考えていた。
そして、夕方だったでしょうか、兄と嫁さんが駆けつけてくれて、すぐに病院に向かう。
まだ、新型コロナウイルスによる影響で面会制限はありましたが、状況が状況だけに“連絡を入れればいつでも面会可能(少人数)”という対応をしてくれた。
看護師二人に案内され病室に入ると、もの凄い勢いで呼吸をし、身体をばたつかせている父親と対面する。
呼吸の状態は、100メートルを全力で走った後のような状況となっているそうで、加えて手足の動きが激しく、どう考えても苦しそうだ。
目は開いたり閉じたり、声かけに対する反応もなく、三人がそばにいることに気付いているような気配は一ミリもない。
この状況で“父ちゃん頑張れ!!”と言うのは酷で・・・三人ともそんなことは一言も言えず。
“父ちゃん、よく頑張った、もう無理しないでいいよ”、それ以外は言葉にできなかった。
今後は、父親の状況に少しでも変化があれば、その都度連絡を入れてもらうこととなり、兄もしばらく休みをもらっているということで、三人で自宅待機をすることに。
もうすぐ一日が終わる、これまでの人生でこれほどまでに長い一日はあっただろうか。
望みが断たれ、死を待つようなこの状況はなんとつらいことなのだろうか。
眠りたいのに眠れない、そんな状況の中で病院から連絡があり、“血圧が低下してきている”ということで、急いで病院に向かう。
先ほど病室を訪れたときと打って変わって、父親は静かで、本当に静かで。
看護師から状況説明を受け、三人で父親の身体をさすっているとバイタルサインが乱れていく。
不思議ですよね、最期の瞬間はそれなりに反応がある。
僕が手を握って、“父ちゃん頑張ったね、母ちゃんにもヨロシクね”と言うと、手を握り返してくれたっけ。
兄が“○○連れてきた、お腹もこんなに大きくなったよ”と言ったときには、兄の方を見て“ああ”と確実になにか言いたそうな素振り。
父親が手を握り返してくれた感触、そしてこの瞬間の光景は忘れたくても忘れられない。
そして、病室に着いてから30分くらい経ったのだろうか、深夜4時過ぎ、父親は旅立っていった。
呆気ないと言えば、ものすごく呆気ない、でも僕からすると父親らしいなと。
“この状態なら粘っても仕方ない、こんな姿を親戚や子供たちに見せ続けるのも嫌だしな、旅立つ準備ができているのなら、潔く旅立とう”、そういうことなんだと思う。
つらいとか苦しいとか口にせず、そういう状況も大嫌いな人だったので、自分自身の手で状況が変えられないなら、スパッと次に進むことを決断するのではないかと。
この世にも待ち人はいるけど、あの世にも待ち人がいる、父親なら、“しんみりとしたこの世よりも摩訶不思議なあの世”を選びそうだ。
本当に勝手な想像なのですが・・・。
終章 静かな世界
母親も存在感のある人だったが、還暦を迎えて以降の父親の存在感と言えば別格で、存在感の塊のような人だった。
テレビに向かってベラベラ喋り、大きな声で“ゲラゲラ!ゲラゲラ!”と笑う。
喋り出したら止まらないし、例えるなら、近くで一日中大音量でラジオをつけている感じ。
テレビで使用されている笑い声の効果音に父親の笑い声も付け足してくれないだろうか・・・まあ、不快感の方が勝ってしまうかなぁ~( ˘ω˘)スヤァ
集中して作業を行いたいのに、部屋のどこに行ってもその笑い声が聞こえてくるので、“何とかならんかな”“勘弁してくれないかな”、そう思ったことやイライラしたことは数知れず。
ただ、父親が亡くなって以降は、その笑い声が恋しくてたまらない。
単にテレビをつけていても物足りない、“そうじゃない、笑い声が足りないんだよ!!!”と。
こんな気持ちになるとは夢にも思わなかった。
そして、今まで父親の存在でかき消されていたが、「鼻歌」「革靴のコツコツ音」「料理を作っている包丁の音」など、近所の方々の生活音はこんなにも聞こえてくるものなのだと気づく。
裏を返すと、父親の笑い声はどこまでも響いていたのではなかろうか。
“もう一度だけ”と言って、一度だけで終わることなどまずあり得ない、それでももう一度だけ父親の笑い声を聞きたい。
どこかからあの豪快な笑い声が聞こえてこないものだろうか。