押忍!!“楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ”、応援団員わっそんです^^
当ブログにご訪問していただき、ありがとうございます^^
この記事では、「おわりに」と題して、“闘病日記(闘病記録)を書いている中で感じたこと”や“闘病日記の本編では記載できなかったこと”などについて触れています。
ここまで書いてきて、まだまだ書きたいことが溢れているので、一体全体“どれだけ触れたいことがあるんだよ!!”と自問自答していまして><
また、闘病日記の本編でも父に関することについて沢山触れているのに、再度記載しているので“またか!!”と感じる項目もあるかも知れません。
本編を通して結構同じようなことを何度も書いてしまった気がするぞい・・・ぜひ穏便に対処してくださいませ(*^-^*)
父への想い
父のことについては、うんざりするほど触れているのですが、それでも書き足りないことが多いこと多いこと><
特に触れておきたいことを少しだけ書かせてもらうっす(。-∀-)
母が体調を崩してから数年経ったぐらいまでは、父との関係性は希薄だったこともあり、純粋に“父が大好き”と言えるような状態になったこと自体、いまだに信じられません。
父には申し訳ないのですが、僕自身にとって、父の存在意義というのは陰に隠れたように小さく、正直“母がいれば十分だ”、そんなことを考えていた日々もありました。
それが、今では、母を想うように父のことを想う、どちらではなく、どちらにもこの上なく会いたい。
父を想い、涙を流す日々が来ることになるとは・・・。
例え、「憧れの人」や「師匠のような人」から教えを請うたとしても、十代の頃の自分自身なら、笑いながら聞き流していたことだろう。
“父が変わったのか”“僕が変わったのか”・・・ただ、ここ十数年の父に対する印象は、僕が少年時代に抱いていた印象と180度異なっていることは確かなんだよなぁ~m(__)m
「両親が嫌い」だとか「両親との関係性が希薄」だとか「両親とどのように接していいのかわからない」だとか、複雑な想いを抱いている時期が長くても、人間は必ず自分自身が成長し一定の年齢に達したときに、“両親の偉大さ“や“両親のありがたさ”に気付くようにプログラムされているのではないか、そんな気がしてなりません。
僕は、母が亡くなるまでは母によって育てられ、それ以降は父によって育てられた、大雑把に言うとそのような印象を抱いています。
そしてもう一つ、父の超楽観的で何事にも苦にしない強靭なメンタルについて考えることが多くって・・・。
父の母(祖母)、父の妻(母)が亡くなったときも、大きく感情が乱れることはなく、気持ちを切り替えるというレベルでもないようで、普段通りに過ごしていた。
ただ、父が祖母や母をものすごく大切に想い、大好きだったことは一目瞭然だったので、不思議でしかない。
そして、今回の肺がんの闘病中においても、そして自身の死期を前にしたときでも、感情が乱れることやなんとなく異なる雰囲気を出すような状況等も日記の中のたった1度だけ。
自分たちが亡くなっても、大きな感情の変化等はなく、“その日のうちにテレビを観て笑っているよな”と兄とよく話をしているっすヾ(≧▽≦)ノ
育ってきた環境等さまざまな要素はあるとは思いますが、おそらく父は、“物事を第三者的な立ち位置で俯瞰的に見ることができる人”だったのかなと考えています。
家族や自分自身に降りかかった不幸な出来事さえも、ニュースを見ているときに流れてくる悲報のように受け止めることができたのだと。
感情がないわけではなく、喜怒哀楽もしっかり備わっている。
ただ、哀の部分と異常なほど上手く付き合っていけていることに、僕自身はものすごく羨ましさを感じていました。
まあ、父には殴られそうだけど、武士(もののふ)とかロボットに見えたこともあったなよぁ~( ˘ω˘)スヤァ
変な分析にお付き合いくださりありがとうございました(*^-^*)
自分自身ことに関して
「おわりに」ということで、自分自身のことに関しても長くならない程度に触れておいた方がいいのかなと^^
現在は挑戦意欲溢れるフリーランス、いろいろなことに挑戦したいっす・・・よろしければお仕事のご依頼お待ちしております(*^-^*)
僕自身は、運送業界で働いていた2017年に「脊髄腫瘍疑い」という難しい病気になり、「長期間休職」→「数か月間時短勤務」→「退職」→「WEBビジネス(フリーランス)」、というような日々を過ごしてきました。
脊髄腫瘍はまれな病気で、多くのことが解明されていないのであります・・・そして振り返れば、「脊髄腫瘍疑い」で腫瘍が悪性と判明していれば、要は脊髄のがんという感じのようでして・・・今はこの世にいないのではなかろうか(。-∀-)
幸い経過は良好で、病気も完治に近づいています^^
気になる症状は多少ありますが、病気になる以前と同じ生活が送れるようになり、“あの病気は一体全体何だったのか??”と言えるような状態まで快復。
ただ、一度腫瘍ができてしまったことは事実で、現在でも年に数回病院で経過観察を受けていますし、“再度同じような症状が出てしまうかどうかは神のみぞ知る”ということなので、リスク要因を避け無理のない生活を心掛けています。
このような状況下で父の肺がんが発覚し、同時期に同じ大学病院に通院するという勘弁してほしい事態になったぞい( ゚Д゚)
幸か不幸か、駆け出しのフリーランスでしたので、父のがんとの闘いを最初から最後まで間近で見守ることはできた。
そして、最期まで共に闘ったからこそ、滅多に感謝の言葉を口にしない父が“ありがとね”と言ってくれたのだと。
しかし、心身ともに限界値に達してしまったのか、父が最期を迎える少し前から、僕自身に病気の初期症状が現れてしまったときには、やはり大切な人を「支える」とか「介護する」とか「看取る」とか、このようなことがどれほど大変なことなのか改めて痛感。
思えば、どんな運命の悪戯なのか、父の介護を経験したことで、父と母、つまり両親の介護を経験したことになった。
母に関しては、厳密には「介護」とまでは言えませんが、キーパーソンとして約8年に及ぶ入退院生活をそばで見守り続ける日々。
母の長期間にわたる入退院生活と自分自身の大病、そして父の介護、それらの出来事が続き、二人に寄り添い見守ってきた自身の人生を振り返ったとき、そこに何らかの運命を感じずにはいられません。
僕自身、母の介護を通して数年間介護業界に身を置いていたこともあり、これらの経験は父の介護に大いに活かすことができました。
なぜ介護業界を離れたかについては、またの機会にたっぷり話したいなぁ~( ˘ω˘)スヤァ
ただ仮に、“父と母の介護が自分自身にとって有意義なものであったのか”と問われると、それは甚だ疑問。
むしろ、自分自身の人生にとっては母の介護だけで十分であり、父の介護は必要なかったというのが正直な思い。
母に寄り添い、母を見守ってきた日々だけで、“もう充分にさまざまなことを学びに学んだよ!!”と、声を大にして叫びたい。
人間には心の中に器のようなものがあって、その中に受け入れることができる容量は、人それぞれ全く異なっている。
自身が受け止められる容量を超えるような困難に何度も遭遇しながら、“今後に活かせるような素晴らしい体験ができました”と、キレイごとを言えるような人間ではない。
あくまでも僕自身の考えでして・・・このような考えに至った理由や背景等はいつかきちんと書きたいのであります・・・うん、書きたいことばっかりだぞい( ゚Д゚)
ただ、自分自身の人生を憎んでもそこには何も生まれない。
下を向く時もある、上を向く時もある、それでも、できることならば真っすぐ前を向いて歩いていきたい。
何よりも、これらの体験を「無」にしては父と母に申し訳がないし、自分自身も死んだも同然となってしまう。
本人が望むか望まざるかは別として、このような人生を引き寄せたのは自分自身に原因があるのかも知れない・・・因果の法則ではありませんが・・・。
“すべての現象は単なる偶然ではない・・・偶然のなかにある必然”と強く感じていく中で、もう都合のよいときだけ偶然を装うことはやめて、自分自身に起きた出来事を素直に受け止め、“自分にしか伝えられないことがあるのならそれをありのままに伝えていきたい”、今はそんな風に思っています。
がんという病気
父のがんとの闘いを振り返ってみて、がんは特殊で厄介な病気だと改めて実感しています。
がんが普通の病気と異なる点としては、
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ということが挙げられると思います。
ただそれ以上に、がんという病気の特殊で厄介な点は、“症状も経過も結果さえも人それぞれで全く読めない”という点ではないでしょうか。
例えば、父の場合、肺がんの確定診断時点では、病期(ステージ)は「3A期」であり、もっとも進行している状態である「4期」という診断ではなかった。
肺がんの「3A期」では、病状によっては外科療法の対象にもなり、外科療法の対象外となってしまったとしても根治を目指す治療は可能。
実際、当初は父も根治を目標とする治療内容であり、確かな希望をもってがんと向き合える日々もあったわけでして・・・。
しかし、蓋を開けてみると、“治療を行っても行わなくてもほとんど変わらないレベル”と言われ、苦痛だけを味わい、最終的には1年もたずにこの世を去るという結果に・・・。
大学病院の専門医ともなると、その道のプロであり、これまでに数多くの患者やさまざまなデータを分析してきたはず。
そのプロでさえ、治療をしなかったときのある程度の余命は見通せても、治療をしてどのように変化していくのかというプロセスについては予測することはできない。
少しでも予測が可能なら、“治療を行っても行わなくてもほとんど変わらない”というような、メリットのない治療を行うはずはありません。
他方で、「病期(ステージ)4期」と診断され、絶望的な状況下でも、医師の見立てに反して、長生きする方々は沢山存在している。
余命宣告など当てにならないと、身体で証明してくれている患者さんも実に多い。
希望が絶望に一転することも、絶望が希望に一転することもある、そしてその落差も極端であり、本当に難しい病気であると・・・。
また、人によって症状も経過も全く異なってくる。
放射線治療と抗がん剤治療(薬物療法)の効果や副作用の現れ方はその典型と言えます。
僕自身は、特に父が苦しんだ抗がん剤治療に対する思い入れが強い。
抗がん剤治療は諸刃の剣で、“効けば天国、効かねば地獄、いや効いても地獄を味わうことさえもある”ということからも、非常に特殊な治療法と言えるのではないでしょうか。
一般的なお薬、例えば、風邪薬のように気楽に試すことはできません。
これは、抗がん剤が全身に与える影響が大きいため、しっかり全身状態を考慮しておかないと生活の質(QOL)を下げる要因に繋がってしまうからです。
実際、父に大きな副作用が発現してしまったときには、“何が正しくて、何が間違っているのか”、全く分からなくなりパニックを通り越すありさま。
父が抗がん剤治療を行っている姿を間近で見て、あるいは父が入院中にいろいろな方々との交流を通して聞いた情報等から判断しても、同じ抗がん剤を使用しているのに“こんなに効果も副作用も異なってくるものなのか”と、父も僕も唖然としていたことは記憶に新しいところです。
これはあくまでも肺がんに関することだけですので、他の部位のがんを含めるとまだまだ多くの謎と驚きに満ち溢れているようにすら感じてしまう。
そして、抗がん剤については、その他にも「耐性」や「奏効率」などの難しい点も多いため、知れば知るほど混乱を招くという印象すらありまして><
しかし、全身治療として抗がん剤以上にがんを効果的に縮小させる方法はなく、抗がん剤によって救われた患者さんが沢山存在することも忘れてはいけませんよね。
もし、僕自身が抗がん剤を使用するような状況になったときには、時と場合にもよりますが、好奇心と生への執着によりおそらく治療へと進む決断を下すように思う。
最終的に、どのような選択をすべきなのかは患者本人が決めることではありますが、あまり深く考えすぎず、その時の自分自身の気持ちを尊重するのがベストのように感じています。
父の意思に反して治療への道を進ませてしまった張本人が言うことではないよなぁ~(。-∀-)
最後に、このような特殊な病気で一人ひとり状況が異なってくるからこそ、一般的なことがまとまっている書籍よりも、各人の体験談が価値を持ってくるのではないでしょうか。
一人の体験談のみでは、がんとの闘いにおける流れを把握することは可能ですが、大きく状況が異なってしまうこともある。
それでも、現在のように情報化社会となり、多くの方々の体験に触れることができるようになると、必ず、自分自身の状況と似たり寄ったりの体験に出会うことができるはず。
一つの体験談だけでは補えない部分があっても、体験談が増えるにしたがって、見えてくる景色は大きく広がってくる。
これは僕自身が実際にいろいろな情報に触れてみて身に染みて感じた出来事と言える。
やはり、一人ひとりの生の声は参考になり役立つことばかりで、最高の教科書であることに違いありません。
信頼できる医師とは
「信頼できる医師」とはどのような医師なのでしょうか??
はっきりとした定義があるわけではないので、何を重要視するのかで人によって全く異なってきますよね。
僕自身は、
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勝手ではありますが、そんなイメージを抱いている。
自分自身が病気になったと仮定すれば、求める答えが見えてくるような気がするぞい・・・あ、そういえば、僕は病人だったよなぁ~( ゚Д゚)
介護や社会福祉士の専門校に通っているときに、「受容・傾聴・共感」について勉強する機会が多々あったけど、これらを実践してくれている医師がいたらすぐにファンになるのでありますヾ(≧▽≦)ノ
僕自身は、母が入退院を繰り返す日々を見守っていた時期から、段々とこのようなことを考える機会が増えていったような気がします。
母の体調不良や自分自身の病気、そして父の病気、おそらく、僕は世間一般の方々よりも医師と接する機会が多かったに違いない。
ただ、はっきり言いますが、これまでに一度も信頼できる医師に出会ったことはありません。
一方、同じ医療従事者でも、看護師やソーシャルワーカには信頼できる方々が沢山いました。
この違いは何なのか非常に不思議で・・・。
ちなみに、母には聞き忘れちゃったけど、父は生涯で“2人の素晴らしい医師に出会った”と言っていたぞい・・・ただ、今回のがん治療においては医師に対する不満は大きかったなぁ~( ̄д ̄)
母と自分自身の病気のことまで含めますと話がごっちゃになってしまうので、ここからは父のがんのことに絞って話をしますね。
父のがん治療においては、多くの医師の方々がかかわってくれましたが、“父の話をしっかりと聞いてくれる”“病状について詳しい説明をしてくれる”、これらの担い手はいつも医師ではなく看護師でした。
僕自身も、医師が忙しいことは百も承知なので、事前に質問したいことをメモに取って簡潔にまとめ、医師に回答してもらうことが多かったのですが、いまいちわからないし、それ以前にそもそも質問できる状況ではないことも・・・。
再度質問するのも気が引けるので、結局は“「書籍」「ネット」「ブログ」「電話相談」などで疑問点を解消する”、その繰り返し・・・。
なかなか医師との距離感も縮まらず、今までに積もり積もっていた想いも加わり、“医師と患者はこんな関係しか築けないのか”と幻滅してしまったのが正直な気持ちです。
医師に対して批判的な文章になっていますが、これは僕の一方的な意見であり、医師の立場からすれば、“患者と信頼関係を築きたい”と考えていても、実践できない背景があるのではないかと。
“仕事が激務である”“人間同士なので相性もある”“ 感情抑制が求められる仕事である”などの要因はよく目にすることも多い。
人の命を預かる仕事に就く選択をした大多数の方々は、自分自身の実体験等に基づいた確固たる動機を持って、その職業を目指し、就職後は日々使命を全うしている。
そのような方々が“患者とのより良い関係を望まない”ことなどあり得ないと信じている。
だからこそ、医師個人ではどんなに努力をしても解決できない問題点については、働き方改革等で一刻も早く改善してほしい。
奇しくも、新型コロナウイルスにより日本の医療体制の課題や問題点が浮き彫りになっている今だからこそ、さまざまな改革をするチャンスではないかと。
医師会の存在も大きいけど、国の政策は、「医療」「介護」「子育て」について軽視しているとしか思えないよなぁ~m(__)m
医師は多くの患者と向き合っているので、どうしても患者を大勢の中の一人としか見れないのではないだろうか。
しかし、患者側からすると医師は“大切なパートナー”であり、大きな病気になればなるほど“共に闘っていきたい!!”という想いが強くなることも理解してほしい。
現状のような運任せで信頼できる医師に出会うというのではなく、患者自身でパートナーを選べる時代が来ることを切に願っています。
追記 散る花と咲く花
父がこの世を旅立ってから約1か月後、新しい命が誕生した。
父と母が生きていれば、二人にとって初孫だ。
ダメ息子二人なので、ずいぶんと遅い初孫なのであります( ˘ω˘)スヤァ
“人が亡くなるときはだいたいタイミングが悪いんだよ”、父がそう言っていたことをしきりに思い出す。
確かにそうだ、実際に、“誕生日が近づくと死亡率が上昇する”という調査報告もあるし、テレビなどを観ていても、人が亡くなった少し後に祝い事が待ち受けている場面を目にすることが多い。
“運命とは残酷なものだ”と他人事のように観ていましたが、まさか自分自身の身に起こるとは・・・これらのことが必然であるのなら、なんと残酷なことなのだろうか。
もし、万物の創造主が存在するのなら、こういうときぐらいは少し寿命を延ばしてくれ!!
ところで、母が孫を可愛がっている姿は目を閉じれば容易にイメージができる、それもリアルに鮮明に。
ただ、父が孫と触れ合っている姿は全くもって想像できない、そういうことに興味がない人だったので・・・。
だから、どちらかと言えば、父が孫と接している姿を見てみたかったかな。
自分の寿命を与えてでも見たかったぞ・・・まあ、遠慮なしに“10年ぐらいよこせ”と言ってくるだろうけどなぁ~( ゚Д゚)
“亡くなる命もあれば、新たに誕生する命もある”、でも同じ年に、というか行き違いのように二つの事象を体験するとは、なんてミステリアスなことだろうか。
“自分が生まれたときもこんな感じだったのかな”“自分が死にゆくときもこんな感じなのかな”、まさに生と死は隣り合わせ、生命の神秘に生々と触れたような1か月間であり、同時にパンドラの箱を渡されたような複雑な日々でもあった。
最後に、僕自身が定期的に赤ちゃんに触れている中でひしひしと感じることが二つある。
一つ目は、“両親に聞いておきたかった話がまだこんなにも残っていたのか”ということ。
母が体調不良になって以降は母との時間を、父が病気になって以降は父との時間を、それぞれ大切にして過ごしてきた。
親孝行の“お”の字もないぐらいに、何もしてこなかった人間・・・そのことに気付いたときには、もうそれぐらいしか自分にできることが見つからなかった。
だから、両親とは誰よりもコミュニケーションをとっていたという自負もあるし、大げさに言うと、“もう聞くことはないんじゃないか”、そんな風に感じていたぐらい。
ただ、兄が子育てに悪戦苦闘している姿を見て、まだまだ聞きたいことやアドバイスをしてほしいことがこんなにも残っていたのだと気付く。
もちろん自分よりも兄が両親に聞きたかったはずだよ・・・新たな経験をすれば、その分聞きたいことが増えていくのを忘れていたっす(ΦωΦ)
人間は失ってから気づくことが多すぎる、ある程度のことは予測できてもいつもその想像の遥か上を行く。
人間は“愚か者”ではあるが、その言葉だけでは表現できないほど、人間という生き物自体が不都合で不条理に感じてならない。
そして、二つ目は、“介護と子育ては非常に似ている”ということ。
兄や嫁さんから子育てに関する話は沢山聞くし、いろいろなことが重なって迎えた出産と子育てということで、ベビーシッターのような感じで手伝いに行くこともある。
介護と子育ては、実質的にやっていることは同じと言っても過言ではない。
赤ちゃんは自分で寝返りを打つこともできないので、介護保険制度で例えるなら「要介護5」になるのかな。
赤ちゃんのお世話をしているときに、ふと父の介護を思い出すことが実に多い。
“赤ちゃんは軽いからオムツ交換は父より圧倒的に簡単だな”“大したものを食べてないのに父と同じぐらい便が臭い・・・いや父の方が上だわ”“笑っていたかと思いきや突然大声で泣き叫ぶ・・・せん妄症状が発現したときの父のようでどう接していいのかさっぱりわからないや”、さまざまなことが頭をよぎる。
そして、介助者の精神面に与える影響も類似している。
一般的には、おそらく「赤ちゃんは自分の子供であり愛しく可愛い存在」「両親は自分を育ててくれた存在で一番身近な人生の先輩」、どちらも唯一無二の存在だ。
そんなかけがえのない存在でも、毎日介護(介助)をしていると、イライラするときも、放棄したくなるときも、憎んでしまうときすらある。
相反する気持ちが複雑に混じり合ってしまうため、大きな葛藤となって自分自身を追い詰める。
介護も子育ても一人で向き合おうとすると限界を超えてしまうことは紛れもない事実であり、サポートが欠かせない。
そんな非常に似ている介護と子育てですが、それでも一つだけ決定的な違いが存在する。
両者とも期間限定であり、いつの日か自分自身の手から離れていく。
要は、“必ず別れの日が来る”のですが、その別れが“一時的なものなのか永遠のものなのか”という決定的な違いがあるのだと。
言い換えれば、“明るい未来を描くことができるのか、あるいはできないのか”、そんな言葉になるのかも知れない。
おわりに
40歳に近づき、いい歳をして恥ずかしいのですが、この日記を書きながら何度涙を流したことだろうか。
いや、いい歳になったからこそわかることが増え、涙が止まらなくなる。
昔の自分には考えられない、映画やドラマだけでなく、実際に悲しい出来事が起きても、周りの人が泣いている中で一人平気な顔をしていたし、泣くこともないという変な自信もあった。
そんな人間が今やバラード曲やドキュメンタリー番組でも容易く泣いてしまう。
人間とはこんなにも簡単に変わっていく生き物なのでしょうか。
また、感傷に浸ってペンが止まってしまうことも数知れず、計画通りに日記の作成が進まず、やめようと考えたことも多々あった。
闘病日記となると、一つひとつの出来事においてハッピーエンドを迎えるようなことは少なく、つらく苦しい出来事の方が圧倒的に多い。
そして、人間は楽しかったことよりも、つらかったことや苦しかったことを思い出しやすい。
傷が癒えていない状況だとフラッシュバックのような現象に陥ることもある。
だから、自分自身のつらい出来事を包み隠さず、ブログ等に書いている人はやはりスゴイなと。
そのような方々によって励まされ、そういう方々に憧れを抱いているような自分もいて、途中であきらめることは後悔に繋がってしまう。
そして、なにより闘病日記を書き終えないと気持ちが切り替わらず、次のステップへ進めないような気がしたことも最後まで書き続けられた大きな要因です。
なんか大げさな気もするけど、大目に見てくださいませ(*^-^*)
闘病日記を書き終えて、“心の整理に繋がったこと”“気持ちが楽になったこと”は確かで、父のことを振り返り、自分自身を見つめ直すきっかけにもなり、そして、新たな目標も見えてきた。
あとは、この闘病日記が一人でも多くの方の役に立ってくれれば幸いです^^
そして、同じような境遇に置かれている方々や同じような経験をしている方々との交流に繋がり、自分自身の体験を活かせるような場や活動に出会えることを願ってやみません。
そして、ここまで読んでくださった皆さま、長々とお付き合いくださり本当にありがとうございましたヾ(≧▽≦)ノ