押忍!!“楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ”、応援団員わっそんです^^
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父親の闘病日記(闘病記録)第十五話になります。
趣味
父親は白内障になって以降、糖尿病を患っていることもあり、目のケアについては人一倍気を配るようになりました。
「目薬」「目を休ませる」「アイマスクやサプリメント」、基本的なことはすべて実践していたぞい(*^-^*)
なんせ、「映画」「テレビ」「車関連」「パチンコ」など、目を酷使するような趣味ばかりであり、“目が見えなくなったらなんもすることがなくなるわな”というのは口癖の一つ。
しかし、肺がんになって以後は徐々に趣味に充てられる時間も減っていき、追い打ちをかけるように、脳転移によるものと考えられる症状が目に現れてしまったこともあり、父親も流石に困惑><
とはいえ、ただでは負けない父親、特に症状が強い左目に眼帯をして、“この番組は見逃すわけにはいかん”と片目でひたすらテレビを観まくる。
まあ、気合で見ているような感じですので、間違いなく疲れますよね><
ちなみに、症状が強く現れている左目は、ひどいときには重複して見えるというレベルではなく、どんな感じか説明されてもほとんど理解できませんでした。
“お前は誰だ??”“何処にいるのよ??”と半ば冗談交じりにからかわれていたのであります( ̄д ̄)
新型コロナウイルスの影響でパチンコにも行けず、肺がんの症状が強くなり車の運転もできず、さらには、映画やテレビを観るのも一苦労という状態は、相当苦しかったはず。
それでも、そのようなことを一切口にすることはなく・・・冗談ばかり言う父親にどこか救われていたのかも知れない。
“この目の状態でパチンコを打ったら、見えないものが見えてるから、逆にパチンコ玉の半数以上は入賞口に入れられそうだよ、惜しかったなぁ~”と言っていたっす(ΦωΦ)
いらないおまけ
前回の受診から1週間後の2020年5月14日には、放射線腫瘍科で治療計画CTを行い、その後に呼吸器内科を受診。
大学病院に通院をするようになってから数か月、看護師の方と話をする機会も増え、会えば声をかけてくださる、父親のことを親身になって考えてくださるような、顔見知りの看護師の方もおりまして、ただただ感謝^^
この日は呼吸器内科の診察がものすごく混んでいたようで、かなりの時間待たされていたのですが、一人の看護師の方が“ごめんね~”と声をかけてくださり、別室で相談に乗ってくれて^^
この看護師の方は、これまで検査や治療についての説明を担当してくれたことも多く、父親の状況を理解してくれており、“○○さん、痛みもものすごく強くなっているようだし、吐き気はつらいけど、お薬を飲み続けていると副作用も軽くなってくるはずだから、先生に強い痛み止めを処方してもらって、きちんと飲んだほうがいいよ”と言われたらしく、「痛み治療の記録」というメモ帳を貰う。
“吐き気は嫌なんだよな~、まあ、お世話になっている看護師が言うんだから飲むしかないか”・・・“お前も飲んでみるか??”ということなのであります( ˘ω˘)スヤァ
このようなこともあり、今回の診察では強い痛み止めの処方を拒むことはせず、看護師に、“処方された日数分しっかり飲んで、痛み治療の記録も書いてくるわ”と伝えていましたね。
そして、今回から「オキノーム」と「オキシコンチン」という医療用麻薬と呼ばれるお薬が処方されることに。
オキシコンチンは12時間ごとに、オキノームは痛みが強い場合1時間ごとに、何回でも服用が可能ということだったと思います。
これまで、“父親とがんで処方されるお薬(特に痛み止め)の相性は非常に悪い”と何度となく記載してきていますが、最終的に、すべてはここに集約されるのかなと・・・。
あくまで、父親の場合ですが、“どうにもならない”、つまり「最悪」という言葉でしか表現のしようがない。
手元に父親が書いた「痛み治療の記録」があり、そちらを見てみますと、
※詳しくは記載していませんが、この治療記録は「痛みの強さ」以外は、各項目とも3段階評価となっています |
と散々な状況。
また、小さなメモの欄(備考欄)があるのですが、そこには、“便秘が1週間続いている”“毎日飲むと痛みが和らいでくるのかな??”“オキノームとオキシコンチンを飲んでも痛みはあまり変わらない”など、いろいろなことが記載されている。
もちろん僕自身も、この頃の状況についてはそばで見ていますし、父親からも直接聞かされていたので、“飲むのをやめた方がいいのかな”と毎日のように悩んでいたことを鮮明に覚えています。
まるで薬剤(抗がん剤)治療をしているかのような副作用の現れ方だったので・・・。
がんになるまで、お薬の副作用で苦しんだ姿を見たり、苦しんだという話を聞いたりしたことはなかったから、一体全体どうなっているのだろうかと不思議で、不思議で・・・今更だけど、詳しい方に教えてほしいぐらいだよなぁ~(ΦωΦ)
父親としては、処方された分はしっかり飲むと約束をしたし、副作用が軽くなることを祈って頑張って飲んでいたのですが、10日間の放射線治療を控えていたこともあり、放射線治療の前日から一旦飲むのをやめることに。
以降は、担当医と相談をしながら、痛み止めを「オプソ」と「MSコンチン」に変更してもらったり、便秘薬や吐き気止めも追加で処方してもらったりしたのですが、最後まで効果を感じられるお薬はなく・・・。
担当医や看護師、そして薬剤師から、“飲み続けることによって副作用が軽くなってくるお薬ですので・・・”と何度も聞かされていたから、父親も頑張って飲んではいたけど、最長で1週間が限度という感じだったなぁ~m(__)m
医療用麻薬が少し効いて痛みが多少緩和したと言っていた日もあったのですが、総じて、痛み止めを飲むと、“痛みはあまり改善されず、便秘と吐き気等がついてくる”という、いらないおまけがついてくるという最悪な結果。
終末期医療の際には、この状況がいたたまれないというか、やるせないというか、今でもふさわしい言葉が見つかりません。
最後に、今回の診察で担当医から処方されたお薬は以下になります。
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前述したとおり、「オキノーム散」と「オキシコンチンTR錠」に加え、吐き気が強く出ることを見越して「ノバミン錠」、便秘も続いていたので「ラグノスNF経口ゼリー分包」とお薬の量が増えています。
◆父親の痛みの度合いの変化について
痛みの診断として “10を最大の痛みとした場合、今の痛みはどのくらいですか” という評価方法は有名ではないでしょうか。
肺がんの治療が始まってからは、診察前に看護師から投げかけられる定番の質問の一つに。
これまで父親は、最高でも“6ぐらいかな”と答えていたようですが、4月の中旬か下旬あたりからだったでしょうか、“10じゃ全然収まんないよ、120ぐらいだよ”と看護師を困らせるような回答をするようになっていくのでした><
吐いたらその分食べるべし
振り返れば、父親が初めて吐いたときは、ものすごく衝撃を受けたことを覚えている。
父親から、“気持ちが悪い”とか“吐きそうだ”とか言われた覚えがなく、実際に吐いた姿をみたのも初めてだったから。
数年前に突然めまいの症状が現れたことがあったけど、“吐きそう”なんて言わなかったしなぁ~m(__)m
本人曰く、昔付き合いでお酒を飲んでいた時期があって、そのときは結構吐いていたそうなのですが、お酒を飲まなくなってから吐いた記憶はないと・・・。
そして、同じように衝撃を受けたことが、吐き気があろうが、いやむしろ吐いてしまおうが、食事がとれてしまうことなんですよ><
これは普通のことなのでしょうか??・・・僕にはできない芸当なのでさっぱりわからん( ˘ω˘)スヤァ
父親が言うには、“吐いたから食べられない”とか、“気持ちが悪いから食べられない”とか、そのような状況のままだと体力が落ちるし、体重もどんどん減少してしまうということでして・・・。
ものすごく真っ当な意見で全く異論はないけど、それにしても“よく食えるなぁ~”と( ゚Д゚)
吐き気が強くても食事の時間になると普通に食べますし、汚い話なのですが、食べている最中に吐いてしまったことも多々ありましたが、それでも、“あ~、気持ちわり~、よし食うか!!”という切り替えの早さ。
“おお!父ちゃん、惚れ惚れするほどの気合い!!”・・・ただ、目の前で吐いているけど、俺も食事をとっていることを忘れないでくれ~(。-∀-)
“だから余計に気持ち悪くなるんじゃないか”と思ったけど、薬剤師に聞いてみてもそういうことではないみたいで・・・むしろ、どういう状態でも食事がしっかりとれることは素晴らしいと言っていたのであります(*^-^*)
「吐いたらその分食べるべし」なんか変な格言なのですが、ここでも父親のパワフルさを感じずにはいられませんでした^^
地獄の入り口
ここからは、頭部放射線治療へと進んで行くのですが、急激に父親の体調が悪化していき、今思い返しても生気を失うような、胸が張り裂けるような日々となる。
脳転移(転移性脳腫瘍)により、頭を抱えるような頭部の痛みと物が重複して見える症状が現れてしまいましたが、放射線腫瘍科の医師からは、放射線治療を行うことによって、
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との話がありました。
父親が放射線治療で一番期待していたことは、目の状態の改善。
放射線治療とかかりつけの眼科での治療を並行して行うことで、目の症状が改善されること、それこそが父親の一番の望み。
最悪、痛みは多少残っても構わない、ただ、車の運転をし、気楽に映画やテレビを観ていた普通の日々に戻りたいと・・・。
しかし、全10回の放射線治療の真っ只中で、“このまま放射線治療を継続できるのだろうか”、というよりも、“そもそもこの道は最善の道なのだろうか” と考えさせられるほどに父親の全身状態(パフォーマンス・ステータス)が驚くほどのスピードで悪化の一途をたどってしまう。
脳転移に対する放射線治療は延命治療にはなりますが、それと同時にQOLの維持も大きな目標であり、父親自身は、“目の状態が改善されれば今までと同じ生活が送れる”と考えていたので、その治療の最中に全身状態が悪くなるというのは皮肉でしかなかった。
要は、頭の状態が改善されても、上半身や下半身が言うことを聞かなければ元も子もないわけで・・・。
まるで出口の見えない霧の中をただひたすら歩いているような感覚。
そして、僕自身が父親の闘病期間を振り返ったときに、真っ先に思い浮かんでくるのが、父親が最期を迎える数週間とこの放射線治療の10日間の日々と言える。
なぜなら、父親が衰えていく姿をまざまざと見せつけられた日々であり、なおかつできれば味わいたくなかった体験が怒涛のごとく押し寄せてきたからに他なりません。
本当に初めてずくめで、「父親の隣で寝る」「父親の移動を支える」「車いすに乗っている父親」「帰宅後すぐに横になる父親」「助手席で目をつぶっている父親」「お風呂に入る体力さえもない父親」など、細かいことまで挙げるればきりがなく、すべてが目に焼き付いている。
この期間も父親が弱音を吐くようなことはなく、“一度決めたことは最後までやり抜く”と当たり前のように起き上がってきてくれたから、なんとか10日間の放射線治療を乗り越えることができたのだと。
しかし、父親に二つの病院に通うほどの体力は残されておらず、眼科での治療を断念せざるを得なかったことは残念でなりません。
放射線治療と絶句の日々
前項で、頭部放射線治療の日々について大まかに触れてはいるのですが、具体的なことは記載していなかったので、こちらで簡潔にまとめておきたいと思います。
書きたいことは山ほどあるけど、すべてを書くと本当にとんでもない量になるから、簡潔にまとめたのであります!!それでもある程度の量になってしまったぞい(=゚ω゚)ノ
前回の診察の5月14日から外来での放射線治療が開始となる5月19日までに、父親の全身状態(パフォーマンス・ステータス)に大きな変化があったかというと、ほとんどなかったはず。
ただ、振り返ってみると、「息切れがしやすくなった」「夜何度も起き上がってトイレに行くのはきつい」みたいなことを言われた覚えが・・・。
それでも、この期間に僕が父親の介助(介護)をするようなことは一切なかった。
そんなこんなで、今後全身状態が急激に悪くなるなんて、一ミリも頭にはなかったぞい・・・もし予期してたら、事前に病院に相談したり、介護タクシー等を利用したりしていたのであります(ΦωΦ)
5月19日の1回目の「頭部放射線治療」は難なく終えています。
ただ、問題が起きたのは治療後のことで、全10回の放射線治療では、最初と中間、そして最後に放射線腫瘍科の担当医による診察が入っていたのですが、このとき父親は排便が10日間近くなく、担当医に相談したんですよね。
そして、“お腹がパンパンな状態になっており、浣腸をして少し便を出したほうがいい”という話に至り、浣腸をすることに。
数時間かかるということで、その場を離れていたのですが、予定の時刻を大幅に過ぎてもなかなか受信機が鳴らず・・・。
直接放射線腫瘍科に行ってみると、丁度ベッドから車いすに移乗し、病院のパジャマに着替えて、看護師と話をしている父親を目の当たりにする。
しばらく休んでいたらしく、かなりぐったりしていたのですが、何やら怒っている様子。
要約すると、父親はこれまで検査や痔の手術等で浣腸の経験が何度もあり、看護師にこんな風にやってほしいと要望を言ったそうなのですが、まったく見当違いのことをやられたとのこと。
浣腸の量も多すぎだったと・・・。
また、“トイレからなるべく近いところでやってくれないと便を我慢しきれない”と伝えたのに、トイレからかなり離れたところで処置をされ、結局は上下の服が便でベチョベチョになってしまったと・・・。
確かにトイレから離れた場所で、なおかつ服を着たまま処置をするのはどうかと感じたぞい( ̄д ̄)
自分自身では歩けないほど体調も優れないようで、看護師から“入院の準備をしましょうか”と言われるほど。
ただ次の日には、放射線治療とともに眼科の予約も入っていたので、自宅で療養をして何とか眼科にも行けるような状態に戻したいということで、入院は断り自宅へと帰宅。
しかし、自宅に戻ってきたのはいいものの、“寒い!寒い!!”とブルブル震えだし、お腹もスッキリせず、便も出きっていないようで、オムツをし毛布にくるまって横になる。
自力で起き上がることが困難なときもあり、突然介助が必要な状態に・・・それはつまり、そばにいないと安心できない状況であり、この日から父親の隣で眠るようになりました。
このようなことで、“一気に全身状態まで悪化していくものなのだろうか”と疑問だらけの日々だったのであります!!
さまざまな要素があるにせよ、この日を境に直接的に父親の体調が悪化していったことは事実で、この出来事がきっかけになったことは間違いない。
5月20日の2回目の「頭部放射線治療」からは、父親は嘘のように別人となってしまい、昨日までなんてこともなかった、「玄関から車までの移動」や「病院の駐車場から入り口までの移動」も介助なしでは困難となり、僕がしっかり父親を支えて“イチ・ニ!イチ・ニ!”と声をかけながら歩く。
長時間立っているのもしんどいということで、病院内では初めて車いすを使用して移動。
この変わりように看護師も驚いていたことは言うまでもありません。
また、これまで病院に通院する際は、必ず、食事や買い物等をして帰宅していたのですが、放射線治療中は買い物に行けた日が数回で、帰宅後もいつもものすごく元気だった父親が倒れこむように横になって休んでいる。
おそらく、肺がんがかなり進行し、身体も悲鳴を上げているような状態だったのでしょう。
薬剤(抗がん剤)治療で「重大な副作用」が現れ、危険とも言えるような状態に陥ったこともありましたが、そのときは日に日に回復していったのに対して、今回は回復するような兆しが全く見られなかった。
この日以降、父親の体調は悪化の一途をたどり、身の回りのことのほとんどは手助けが必要な状態へと変わっていきます。
僕自身、“本格的な介護をする時期が目の前まで迫っている”と覚悟を決めたことを鮮明に覚えている。
こんな弱々しい父親を想像できただろうか・・・想像しようとしてもできないぐらいだ・・・いつものように演技をして、僕をからかっているのではなかろうか??
◆放射線治療の副作用について
それほど強い副作用はありませんでしたが、いくつかの副作用が現れています。
案の定、一番の鬼門となったのは吐き気の症状。
治療後すぐに気持ちが悪くなって、トイレや車の中で吐いてしまったこともありました。
そのため、嘔吐用のエチケット袋は必需品に・・・。
ただ、この時期になると、“放射線治療によるものなのか”“体調の悪化によるものなのか”“お薬の副作用によるものなのか”、何が原因で吐き気が起きているのかよくわからないといった感じではあったのかなと><
放射線治療終了後は、「頭皮のかゆみ」「髪の毛が抜ける」といった副作用が現れています。
介護保険制度と福祉用具
父親の全身状態(パフォーマンス・ステータス)が悪化し、多くの場面で介助が必要となり、自宅で過ごす際にも不都合なことが増えてきたこともあり、「要介護・要支援認定」や「福祉用具貸与」は待ったなしの状況と言えました。
特に、起き上がりが困難なときがあることやトイレが近いことを考えると介護ベッドとポータブルトイレは早急に用意する必要があると。
もちろん、今後のことを考えて、父親が少しでも落ち着いて暮らすことができるように、また自分自身の負担を減らすためにも、しっかりと介護ができる万全な体制を整えておくことも非常に大切。
しかし、「父親の体調」「福祉用具貸与」「頭部放射線治療」「緩和ケアへの移行」「介護保険制度の利用」と考えることややるべきことが重なりすぎて、正直、容量オーバーというかお手上げ><
さらに、後述しますが、この期間はもう一つ“どん底に突き落とされるような体験”も続く・・・。
人生は苦なり、まさに試練といった感じで・・・ただ、父親が一生懸命闘っているのに、自分だけ失望していても申し訳ないのであります・・・まあ、今だからこそ言えることではあるよなぁ~m(__)m
一つひとつ順番にこなしているような時間的な余裕はなかったので、放射線治療と同時並行で、父親の体調を見ながら動けるときに動き回る。
もうこうなったら、火事場の馬鹿力ということなのであります(ΦωΦ)
幸い、これまでの経験からある程度の知識があったので、「福祉用具貸与」や「介護保険制度」の手続きはスムーズに進み、地域包括支援センター等の手助けもあり、放射線治療期間中に介護ベッドとポータブルトイレを設置することができました。
ただ、「緩和ケアへの移行」に関する詳細部分についての話までは手が回らず。
“在宅での看取り”等を含め、しっかりと相談しておきたかったことが沢山あったのですが、落ち着いて話し合う時間が取れず、今後の治療を行ってくれる病院を決めることで精一杯。
今振り返ってみても、“在宅での看取り”等について、きっちりと相談しておかなかったことを後悔してやみません。
そして、皆さんには“自分のような後悔をしてほしくない”というのが正直な気持ちです。
◆緩和ケアと転院について
現在、どの大学病院でも状況は同じだと思いますが、大学病院は治療を受ける患者さんで溢れかえっており、いわゆる“がん治療が終了している段階の患者さん”は、転院先を模索することになると思います。
ただ、父親のようなケースがあることを考慮すると、現在の緩和ケアの定義通り、治療の初期段階から事前にさまざまなケースを想定し、あらかじめ将来のことについて取り決めておくことが慌てる必要もなく最善ではないでしょうか。
もちろん、“自分自身の症状が悪くなることなんて考えたくないよ”等の意見があるとは思いますが、がんという病気では「大切な選択」がいくつも待ち受けていることを考えると、後悔につながるような事項を一つでも避けるための対応が患者さんや家族の方々にとっても大切なことに違いありません。
◆介護保険制度と福祉用具について
健康な人でもいつ介護が必要になるのかはわかりませんし、病気を患っている人ならなおさらですよね。
介護保険制度を利用するためには年齢等の制限がありますが、緊急の場合には、「要介護・要支援認定前」でもサービスを受けることが可能。
ただ、認定前にサービスを利用する場合にはいくつか注意事項がありますので、しっかり調べてくださいね。
僕自身は、下記のサイトなどを参考にさせていただきました^^
また、僕自身がお世話になり、特にありがたく感じたサービスが社会福祉協議会の「福祉機器貸与事業」
地域によって条件等は大きく異なるようですが、僕が住んでいる地域では、福祉用具が必要な方に期間を定めて貸し出しを行ってくれていました。
もちろん、貸し出しサービスなので、料金が発生し、在庫が無ければ借りられず、中古品にもなる。
それでも、入会金やレンタル料金はとても安く、例えば、僕の地域では、最長で半年間、どのような機器でも一つにつき300円で借りることができました。
ぜひ有効活用してほしい制度ですので、紹介させていただきました^^
映画やドラマのワンシーン
頭部放射線治療期間中のことについては、これでもかと記載していますが、たった10日間の日々なのに、もう一つ大きな出来事がありまして・・・。
それはそれはものすごく濃い時間で・・・。
放射線治療も半ばに差し掛かり、2回目の放射線腫瘍科の担当医の診察があったのですが、父親の体調の変わりようを見て、一刻も早く呼吸器内科の担当医に、現在の状況について相談したほうがいいという話をされる。
最短で診察ができるよう、直接主治医に依頼してくれるとのこと。
そして後日、放射線治療終了後に、「呼吸器内科で採血と尿検査」→「胸部レントゲン検査」へと進み、最後に主治医の診察を受ける。
いつもと変わらない診察で、変わったことと言えば、父親の口数が極端に減ったことぐらい。
ただ、診察室から出ると看護師が父親に声をかけその場を取り繕っていて、僕も別の看護師に呼ばれ、再び診察室に入っていく。
それはまさに映画やドラマのワンシーンで、これまでさまざまな場面で観てきた光景そのもの。
診察室には担当医一人・・・その後も映画やドラマと全く同じ・・・担当医が冷静な表情で口を開き、“父親の体力がこのままのペースで衰えてしまうともって2~3か月”だと。
完全な余命宣告でした。
がんでも元気な状態で伝えられる「余命宣告」と、本人の体調が悪化し薄々気づいているような状態で伝えられる「余命宣告」は、全く別のものなんだと知る。
父親が大学病院に通うようになって以降、ずっと同じ外来担当医(主治医)にお世話になってきましたが、初めて一対一で、それも長時間(1時間程度)話をしてくれました。
僕自身は、担当医に本音で正直な意見を求め、担当医もそれに応えてくれたと感じている。
忙しいのは承知ですが、もっと早く、こんな風にしっかりと話し合えるような時間を取ってくれていたらありがたかったなと。
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要するに、“悪性で質の悪いがん”、そういうことなのだろう。
誰が悪いわけでもないが、どこにぶつけたらいいのかさっぱりわからない、変な怒りがこみ上げてくる。
母親のときと同じだ・・・神も仏もない、乾ききった何の伊吹もない極めて冷酷な現実。
そして、それは忘れもしない、2020年5月25日の出来事だった。
最後に、今回の診察で担当医から処方されたお薬は以下になります。
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副作用として便秘と吐き気が強く現れてしまうため、試行錯誤を重ねているような状況で、「オキノーム散」と「オキシコンチンTR錠」→「オプソ内服液」と「MSコンチン錠」に変更、「ノバミン錠」→「プリンペラン錠」に変更、そして「カロナール錠」はなくなっています。