押忍!!“楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ”、応援団員わっそんです^^
当ブログにご訪問していただき、ありがとうございます^^
父親の闘病日記(闘病記録)第十六話になります。
がんと糖尿病
僕自身、父親が肺がんになったとき、糖尿病も患っていたため、今後の検査や治療にあたって相互にさまざまな影響を及ぼし合うのではないかと非常に心配をしていて・・・。
実際、肺がんになって以降、安定していた糖尿病の数値が乱れ始め、“せっかく正常値に近くなって先生にも褒められるようになったのにやんなっちゃうよな”とがっかり気味な父親。
数値が乱れてしまった要因としては、おそらく、「ストレス」「多量のお薬」「抗がん剤治療」「入退院の繰り返しによる環境の変化」など、さまざまなことが影響していたのではないかと。
肺がんに罹患しても長い期間症状も出ず、体調も万全だったこともあり、父親としては、肺がんよりもむしろ糖尿病の方に気を使っていたことは明瞭。
父親は、糖尿病のかかりつけ医のことを、“人当たりがよく穏やかな性格ですごく話しやすい”と信頼を寄せていました^^
忙しくても、そのような様子を表に出すことはなく、患者との時間を大切にしてくれると^^
キイトルーダを投与している時期に“面白い薬を投与されちゃいまして…”等の話をしたら、先生はほとんど知らなかったらしいのであります・・・ただ、次の診察のときには資料を取り寄せて、いろいろ調べてくれていたと・・・親身な先生もいるもんだなと感銘を受けたのであります(≧◇≦)
おそらく、大学病院の医師よりも、肺がんを含めさまざまなことに関して相談していたのは間違いありません。
このような体験から、僕自身は、医師との相性や信頼関係を築くことがどれほど大切なことなのかをより一層痛感。
信頼できるような医師に出会えるかどうかが、その後の治療のカギを握っていると言っても過言ではないと・・・。
話が逸れてしまいましたが、糖尿病に関しては、かかりつけ医と相談し合い、バランスを取りながら上手く調整していたと感じています。
また、良いか悪いかわかりませんが、父親は、“肺がんが良くなっても糖尿病で死んだら意味がない”ということで、肺がんは肺がんで、糖尿病は糖尿病で、別々に考えて対処していました。
その甲斐あってなのか、肺がんのすべての治療を通して、糖尿病に関して何か言われるようなことや糖尿病が負担になるようなことは一度たりともなく。
肺がんの病状が悪化していく中でも、“病院に行けないようじゃまずいよな”と、変わらず糖尿病のことも心配していたのを鮮明に覚えている。
最終的には、糖尿病専門外来に行くことまではできませんでしたが、幸い数値は落ち着いていたので、インスリン注射を打つと逆に低血糖状態に陥ってしまい非常に危険ということで、呼吸器内科から血糖値を下げるお薬をもらって対処するのみで十分でした。
6月以降に習慣からか勘違いなのかわからないけど、父親は何度かインスリン注射を打ってしまい、一度だけ冷汗やふるえが起こり、意識がもうろうとしているような状態になってしまったことがあって・・・急いで、訪問看護師に連絡をしたけど、ブドウ糖の摂取のみで回復したので良かったのであります!!
唯一の隠し事
これまで、自分(家族)と父親の間において、肺がんに関することで、禁句や隠し事などは何一つとしてなかった。
一般的に、受験生には「○○」を、病気の方には「○○」を、連想させるようなことは言わないようにする、そのような配慮があると思います。
ただ、父親の場合は、向こうから禁句のような発言を連発してくるので、配慮も何もあったものではないと・・・。
どんな内容でもビクともしないから、一時期、“少しは凹ませてみたい・・・”というような願望が湧いてきたことは、内緒にしといてくださいませ(。-∀-)
このような配慮の仕方については、人によっても時期によっても全く対応が異なってくるのではないでしょうか。
最終的な余命宣告をされた際も、「進行速度の速いがんであること」「治療効果もあまり認められなかったこと」、そして「もって2~3か月の命であること」、担当医と話をしたほとんどすべての内容を正直に伝えている。
担当医と哀しい対話をし病室から出た後、父親から“何処行っちゃってたのよ”と聞かれた際に、はぐらかすこともできたし、隠すことも選択肢の一つではありましたが、父親がそのようなことを望んでいるはずはないし、今まで通りの対応が一番だと判断。
父親の反応は予想していた通り、“大門さん(ドクターX)に頼むときがきたか”“まあ、この体調じゃそうだよな”“○○とも2~3か月でバイバイだな”、本当にそんな反応で・・・もう笑うしかないですよ><
それでも、最後の最後まで言えなかったことがたった一つだけある。
それは、“治療を行っても行わなくても同じような結果となっていたかも知れない”という現実。
元々は治療どころか検査さえも望んでいなかった父親、その父親の想いを覆したのは紛れもなく自分たち家族。
検査や治療を行わなければ、大好きなタバコも吸えたし、思う存分に趣味を謳歌できたし、全く違う人生が歩めたと考えると、胸が締め付けられるようで言葉にできなかった。
特に父親のような性格だったら、思うように生きて、楽しく最期を迎えたかったはずなので・・・何を言っても後の祭りですよね。
ただ、実際は、伝えられなかったというよりも自分自身の保身のためだったのかも知れない。
さらば大学病院
新たな転院先も決まり、大学病院での診察も最後となる。
まず、転院先については、地域医療連携室の担当者から、希望する病院を三つ挙げてほしいということで、第一希望から第三希望まで伝えており、無事に第一希望の病院に転院することが決まったのですが、通常よりも大幅に時間がかかりました。
これは完全に新型コロナウイルスによる影響で、どの病院においても“新規患者の受け入れに関しては検討中”ということで、なかなか進展がなく、どのような状況になるのかさっぱり・・・。
在宅医療(訪問診療)についても話し合いたかったのですが、いろいろなことが重なりなかなか時間が取れず、転院先も保留となり、本当に中途半端な状況・・・。
それでも、たまたま第一希望の病院だけが、“これまでに何度も受診歴があり、地元の方なので6月以降からならば”と受け入れに応じてくれました。
転院先が決まるまで1か月近く時間を要したから、かなり不安な日々だったよなぁ~( ̄д ̄)
次に、大学病院での最後の診察についてですが、2020年6月1日のことになります。
父親は、“最後ぐらいは頑張って先生にも挨拶しなくっちゃな”と言っていたのですが、体調が芳しくなく、僕自身が“無理をしない方がいい”と説得するような状態で。
病院に連絡をして確認をしたところ、前回の診察でお薬は多めにもらっていましたし、僕一人でも何の問題もないということで、一人で病院に向かうことに。
僕自身は現在進行形でお世話になっており、父親までお世話になった病院。
自分は数年間、父親は1年に満たない期間でしたが、良くも悪くも最後の診察となると、走馬灯のように思い出が蘇ってくる。
実は前回の診察の際に、「心肺停止時の対応」についての説明があり、“お父さんには無理に確認する必要はありませんが、家族で話し合って決めておいてください”という話もされていた。
このようなことは、父親が肺がんになった直後から直接希望を聞いていましたが、再度父親と兄と話し合いをし、その旨を担当医に伝える。
その後は、転院先に必要となる書類をもらい、“父親も最後に先生といろいろ話したいことがあり、お礼も言いたかったみたいです”と伝えて、診察室を後にしています。
実を言うと、父親が一番話したかったのは、親身に相談に乗ってくれた何人かの看護師さんでして・・・元気だったらそれは、それはお茶でもしたかったのではないかと( ˘ω˘)スヤァ
ゴールデンタイム
2020年6月に入ると、体調の悪化に歯止めがかからず、父親は全介助に近い状態となってしまう。
父親が自分一人でできることと言えば食事ぐらい。
そして、その食事が唯一の楽しみだったように思います。
食欲は驚くほどあるんですよ、ただ何でも食べられるのかと言ったらそうではない。
食べられるものは限られていて、「お粥」「そば」「うどん」「うめぼし」「ヤクルト」「ヨーグルト」「一部の果物」ぐらいで、それ以外の食べ物は身体が受け付けないと・・・。
“肉が食いたい”と言われ、「焼き鳥」やら「唐揚げ」やら、とりあえず肉が入っている料理を買ってくることが何度かあったけど、残念ながら食べられず・・・“ヨーグルトにぶっこめば食えそうだな”と本当にヨーグルトの中に入れていたぐらいだから、相当食べたかったはずだぞい( ゚Д゚)
あんなにすこぶる元気だった父親が、食事以外はほとんどベッドで横になっており、不眠症で全然眠れないと言っていた日々がウソのように昼夜を問わずぐっすりと眠っている。
毎日一体何時間観ているのだろう、父親よりもテレビの方が疲れているんじゃないのか、そのぐらい大好きだったテレビを観ることもほとんどなくなった。
顔を合わせれば、大きな声でラジオのようにしゃべり続けていたのに、会話をすること自体が減ってしまっている。
父親が入院していたときのように自宅は静かな時間が多くなっていく・・・。
それでも、6月の半ばぐらいまでだったでしょうか、日によって違いますが、深夜から午前中にかけて、平均すると3~5時間程度、毎日必ず調子の良い時間帯がありまして・・・。
父親はこの時間帯を「ゴールデンタイム」と名付けていたのであります(*’▽’)
この時間帯は、魔法をかけられたかのように、身体に何かが宿ったかのように、傍から見ると病人とは思えないような、普段通りに近い父親、いや普段通りと言っても差し支えない。
料理を作ったり、軽く室内を歩いたり、自分の部屋で予約番組の確認をしていたり、それでいて、身体の痛みも訴えず、会話のキャッチボールもスムーズで・・・不思議な現象だなと。
また、この時間帯を上手く利用して、お風呂に入ったり、知人に電話をしたりもしていましたね。
僕自身もこの時間帯があることがすごく励みになって、いつもと変わらない父親に会えることが嬉しくて、待ち遠しくなっていることに気付く・・・。
父親になんでこんなミステリアスな時間があるのか聞いたことがあるんだけど“天からの最後のプレゼント”ということらしい・・・あら、父ちゃん、「最後」って言葉はいらないと思うぞ(ΦωΦ)
転院と絶望と希望と
転院先となった新たな病院の初診日は、2020年6月5日。
“あら、久しぶりにこの病院に来たわ”と父親、そして“引っ越してきて最初と最後の病院がこの病院になるかもな”と、またも自虐ネタが炸裂m(__)m
お世話になった大学病院は自宅から車で15分圏内、転院先の病院は徒歩で15分圏内、どちらもものすごく近場にありますが、さらに近くなりました。
転院先の病院は昔からあり、中規模総合病院という立ち位置で、家族全員が一度は受診したことがある馴染み深い病院。
呼吸器専門の医師もいるということで、自ずと転院先の第一希望に。
現状の父親の体調からすれば、病院に行ったからといって、何か変化が起こるわけでもないことは百も承知。
だから、父親は、“面倒くさいよな”と行きたがらなかったですね・・・元々病院嫌いですし・・・。
父親の性格等を考えれば想定内のことだったから、事前に在宅医療(訪問診療)についての準備やリサーチをしておくべきだったと改めて後悔したのであります!!
頭部放射線治療期間中は、病院に行くのが一苦労という感じでしたが、もう病院に行く準備をする段階から一苦労で・・・と言いますか、父親も僕も準備段階で体力を使い果たすレベル><
介護タクシーを利用する時期に来ていると感じましたが、父親にもプライドがある、“まだ大丈夫だと!!”
介護が必要な状態になると、“こういう気持ちの部分は本当に大切”、最重要ポイントと言っても過言ではない。
これまでの自分自身の経験から、そのように感じていたので、父親の意志に反することは最後の最後までしたくないと考えていました。
病院に着いてからの流れは、「胸部レントゲン検査」→「採血と尿検査」→「呼吸器内科で診察」というように大学病院と全く同じ。
担当医は、冷静で的確に物事を見ていて、数手先を読んでいるかの如く、ものすごく頭が切れる方、そんな印象を受ける。
ただ、患者や家族とコミュニケーションを図るようなタイプではなく、用件のみスパッという感じ。
そして、今回の診察でも、大学病院で経験した、映画やドラマのワンシーンの再現がありまして・・・。
診察が終了し、父親が胸部CT検査に向かった後に、看護師が僕のもとへ来て、再度診察室に案内される・・・ああ、またかと・・・。
担当医が話したことは、現状を否が応でも認めざるを得ない厳しい内容ばかり。
今後考えられる状況で、入院する目安としては、
|
三つの状況が挙げられる。
さらに続けて、
|
とのことで・・・苛烈だなと。
まだこのような場面を経験し、このような言葉を聞くのはたった二回目なのに、もう何百回も味わったかのような錯覚を起こしてしまっている。
要は、それだけインパクトの強い内容なんですよね。
また、初対面で言われたからなのでしょうか、医師の話ぶりが何だかすごく言い慣れていて、無機質なオーラが漂っている感じを受けてしまって・・・。
大学病院の担当医のときも、そのような雰囲気を多少は感じたけど、今回は明らかにそれ以上だったなぁ~(。-∀-)
もちろん、医師の立場からしたら、何百、何千、もしかしたらそれ以上にこのような状況を経験しているかも知れないし、そこに感情を込めていたら身が持たないはずで、ニュースのように事実を淡々と伝えるしかないことも十分に理解できるだけに本当に複雑な気分だった。
これも医師の仕事と言ったらそれまでだけど、今後は犬型や猫型のロボットに伝えてもらうとか、大らかで愛嬌たっぷりの人に伝えてもらうようにするのが最善のような気がしてきたぞいm(__)m
万感交到るといった初診になりましたが、医師から励ましのような一言もあり、“現在の状況では10人中7人ぐらいは3か月以内に亡くなってしまうような厳しい状況です、それでも実際に、想像以上に長く生きる方もいることは確かです”と、まあ「過度の期待は禁物」とも言われましたが・・・。
期待をして予想に反してしまったら、数倍、数十倍、いやそれ以上に苦しむことになる、それでも期待をせずにはいられない。
絶望の中だからこそ、些細なことでも希望となり、何とか希望を見出したくなるものなのだと。
そして、もう一つ、医師の判断で、今後は医療保険を利用して、まずは週1回のペースで訪問看護サービスを受けることが決まる。
お薬や細かな体調面のことは、訪問看護師ともしっかり話し合ってほしいと言われています。
頭の中を整理しようとしても整理しきれない、思考回路が停止して、ショートしてしまいそうな一日だった。
最後に、今回の診察で担当医から処方されたお薬は以下になります。
|
父親がお薬を飲むようになって以降、とにかく、「痛み」「便秘」「吐き気」といった症状をどのように緩和していくべきなのかがずっと課題となっていましたが、なかなか解決策が見つからず・・・。
そして、先生が変わったこともあるのでしょう、お薬自体が大幅に変更となる。
今後は訪問看護師と相談をしながら様子を見て、合わないと感じたお薬は飲まなくて構わないと。
痛み止めのお薬(特に医療用麻薬)は、痛みが強く出た場合に備えて念のために処方しておくという感じでした。
皮肉にも体調悪化のために不眠症は改善傾向であり、父親が一番悩んでいる便秘と吐き気に対応した処方内容となっているのではないかと。
特に、便秘に対しては作用の異なるさまざまなお薬が処方されています。
最期の迎え方
昨今、終活ブームによって、多くの方々が自分自身の死生観について考えることも格段に増えてきているのではないでしょうか。
僕は、父親の死と向き合い、父親の死を通して、生と死に関しては、母親が亡くなったとき以上に深く考えるようになりました。
父親はそのようなことを真剣に考えるようなタイプではありませんが、いろいろな話の延長線上で、父親自身の希望については、冗談交じりながらも耳にタコができるほど聞かされていて・・・。
禁句やタブーもない人なので、惜しげもなくバンバンと話をしてくれたことを昨日のことのように思い出す。
父親には、明確に“ここで最期を迎えたい”という希望はなかったのですが、「相続に関すること」「葬儀は家族葬で十分であること」「親族や知人には知らせなくていいこと」等は、口を酸っぱくして言われている。
あ、それから、“ポックリ逝きたい”と“遺骨は庭やら川やら海やら、まあどこでもいいから撒いてくれればいい”というのも星の数ほど聞かされたなぁ~( ˘ω˘)スヤァ
また、定年後ぐらいからだったでしょうか、万が一のときにも慌てずに対処できるようにと、“大切なものは全部ここに置いてあるから”と簡単なメモ書きを入れてまとめてくれていました。
父親が存命中には“ここだぞ!ここに置いてあるからな!!”と見せつけてくるときだけ覗き見をしていましたが、父親が亡くなり、その場所を確認せざるを得ない状況になった際に、しっかりと整理整頓されていたことに驚くとともに感謝の念が湧いた。
メモ帳はものすごく大雑把だったけど、書いている姿が想像できて父親らしかったぞい(*^-^*)
家族としては、父親の肺がんの病期(ステージ)が進んだあたりから、父親の性格的なことや病院嫌いなことを考え、また、新型コロナウイルスの影響も大いにあり、自宅で看取りたいという想いが強くなっていく。
そして、自宅で最期を迎えることが一番父親らしく、何よりも一緒に過ごす時間も増え、勝手ながら最後の親孝行にもなるのではないかと。
ただ、転院や緩和ケアについての話が出てきた際に、少しずつ決めていけばよいと勝手に判断してしまい、地域医療連携室の担当者に在宅医療(訪問診療)を希望していることは伝えていましたが、具体的な話をすることまでは至らず。
今思うと、いろいろなことを想定し、早め早めに対処しなかったことを後悔してやまない。
言い訳材料はあるにせよ、判断ミスをしてしまったことは事実で、最後の最後で父親に大きな迷惑をかけてしまったと。
◆人生の終末期や理想の最期等に関して
さまざまなデータを見てみると、総じて、“自宅で最期を迎えたい”と希望する方が半数を超えているようです。
「人生の最終段階における医療に関する意識調査報告書(厚生労働省)」等は大変参考になるデータだと思います。
上記のようなワードで検索してみると、さまざまなデータがありますので、気になった方は是非検索してみてください^^
ただ実際は、本人の希望に反して、自宅で最期を迎えられない方々が圧倒的に多いとのこと。
1970年代頃までは、半数以上の人々が自宅で亡くなっていましたが、現在では病院等で亡くなる人々が圧倒的に多く、その割合は完全に逆転しているようです。
医療や社会情勢の変化が大きな要因だとは思いますが、人生の最後ぐらいは自分自身が望むような形で過ごせるようになってほしいと切に願う。
在宅医療(訪問診療)への準備
6月に転院となり病院を変更したばかりではありましたが、遅れを取り戻すためにも、電光石火というような気持ちで、在宅医療(訪問診療)へと移行するための準備に取り掛かる。
大学病院から在宅医療へとシフトをしていれば何の問題もなかったので、新型コロナウイルス影響下にある中で、転院を受け入れてくれた地元の病院には本当に申し訳ない気持ちで・・・。
流石に初診の際に担当医に相談する勇気はありませんでしたが、訪問看護師やケアマネージャーには事情を話しすぐに相談。
幸い、訪問看護ステーションで紹介できる医師がいるとの返答があり、“皆さんさまざまな事情があるので心配無用ですよ!!”と温かい言葉までかけてくれました^^
しかし、ここでも新型コロナウイルスの壁が立ちはだかることに・・・。
テレビなどでも報道されていましたが、病院での感染を恐れる方々も多く、加えて病院が面会全面禁止という状態になっていることで、在宅医療への需要がより一層高まり、初診を迎えるまでには通常の倍以上の日数を要するということでして・・・。
それでも、ゴールデンタイムの項目でも触れていますが、全介助のような状態の中でも食欲旺盛であり、訪問看護師やケアマネージャー、その他の来客があった際にも、比較的しっかりと意思疎通をできていることが多かったので、父親の体調を身近で見てくれていた訪問看護師は、“状態は悪くないので、大きな変化がなければ、問題なく在宅医療に移行できるはずです!!”と励ましてくれていました^^
これは、後々訪問看護師から聞いた話なのですが、“状態が悪い場合(特に大きな病気を患っている方)は医師に紹介すること自体難しい”と。
もちろん、在宅医療に移行する場合にも転院と同じような手続きを踏むので、状態の悪い患者さんの引き継ぎを行うことは医師同士の信頼関係に亀裂を生じさせてしまうとのこと。
まだ在宅医療(訪問診療)へと移行するチャンスが十分にあることがわかり、希望の光も差し込んでいる。
とにかく、ADLを低下させないような介護を心がけ、“父親が苦しむことなく穏やかに旅立ってくれるような環境を整えていきたい”、想うことや考えることはそれだけだった。
涙を流していたのだろうか
父親が要介護状態となって数日が経ったある日の深夜のこと。
ガタガタ、ガタガタと音がして、父親が何か言っているような声がする。
そばに寄ってみると、ベッド柵を掴んで起き上がろうともがいている父親の姿が目に入った。
最初は冗談交じりの口調で話し始めて、
父:上半身は言うことを聞くのに、下半身は全然言うことを聞かない、昔の俺にそっくりだ。
父:起き上がりたいんだけど、下半身に力が入んないんだよ、足を切り落とすか、そこに剪定バサミがあるべ、やんなっちゃうよな、まったく・・・。
父:こんなこともできなくなるのか・・・こんなんじゃ、生きててもしょうがないわ、今までいろんな病気の人を見てきたけど、こんな気持ちになるんだな。
父:だから、ぽっくり逝きたかったんだよ。
父:子供たちにこんな姿を見せたくないし、こんなことがあるかも知れないから、年下の嫁さんをもらったのにな。
父:介護されるんだったら○○(母親)にしてもらいたかったよ、なのに先に逝っちゃって・・・。
一生懸命ベッド柵を掴んで起き上がろうとしながら話をしていたので、ベッドに座ってもらう。
次第に、ほんの少し感情が高ぶっているような様子になっていき、
父:夢か現か幻か、母ちゃんに会ってきたよ。
父:いろんな話をしたなぁ~・・・○○にお礼を言っておいてねって・・・。
父:母ちゃんに続いて、父ちゃんの面倒も最期まで見てくれてありがとね。
父:二人も見守るのは大変だったよね、悪いね。
父:父ちゃんも自分でわかるよ、この体調だと誕生日までは難しいな。
父:夏を迎えられるか迎えられないかって、そんなところだろう。
父:父ちゃんは本当に好き勝手生きてきたから、お前たちには何もしてあげられなかった。
父:何かしてあげたかったんだけど、もうこの身体じゃできそうもない。
父:○○(兄)にも言っといてな、申し訳なかったと・・・。
思い返しても結構長く語りかけるような様相で、省いている部分もあり、全体的にまとめた印象ですが、話の内容は心に刻まれている。
恥ずかしながら、僕は号泣でした、水道の蛇口を目いっぱい開いたかのように。
だから、父親の顔があまりよく見えなくって・・・。
泣いてはいない、ただどうだろうか、一滴、二滴の涙がこぼれたような、こぼれていないような・・・空想なのかな。
目は赤くなかったし、話もすぐに違う方向に切り替わってしまい、余韻のようなものもなく。
それでも、父親が取り乱すような、感情を高ぶらせるような、いつもと違う雰囲気を醸し出したのは紛れもない事実で、肺がんになってから初めてのことであり、最初で最後のことだった。
僕には考えられないことですが、父親には、「弱音を吐く」だとか、「感情をあらわにする」だとか、「深刻な表情を見せる」だとか、そのような場面がこの出来事以外は全くなくって。
「書籍」「テレビ」「ドキュメンタリー」等で必ず描かれる場面がない・・・。
一般的に、大きな病気になると、その闘いの最中に気分の波や感情の変化等が何度も現れるのが当然と言える。
死期を感じてすらなお、そのような変化等がこの出来事以外になかったことが、今振り返っても、嘘のような物語の中にいるかのような錯覚を起こしてならない。